正しいフォークボールの投げ方
第二球 いつの時もフォークボールばかり投げろ-4-
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「ピッチャー、タカハシくんに代わりまして、モトスギくん。モトスギ陽朗くん」
グランドにアナウンスコールが響き渡る。観客たちは聞きなれぬ名前にざわつき始めた。
どよめきの中で、ヒロは二週間ぶりにグランドで一番高い所に立った。緊張のあまり、そんな周囲のざわめきも目の前でワダが話している声も耳に届いていなかった。そんなヒロの背中をワダが強く叩く。
「はは、そんなに緊張するなよヒョロ。確かに初登板とかは緊張するだけで、練習だと思って気楽にやりな」
ヒリヒリと感じる痛みと共に、声が聴こえるようになった。
「で、でも、練習でも上手く投げられないのに……」
「良いか。ピッチャーをやるなら弱気になるな。いつでも、どんな時でも強気で勝気でいろ。そして俺のミットに目掛けて投げろ。それだけだ」
そう言ってワダは自分の守備位置……ホームベースへと戻っていった。
ワダの背中が遠ざかる毎に、再び緊張と困惑が甦って、周りの声が聞こえなくなっていく。テストの時と違って大勢の視線がヒロに集まっているが、それを感じる余裕すら無い。緊張と混乱のあまりに、良く言えば無心。悪く言えば放心。それが今のヒロの状態だった。
慣れぬ投球練習を終えると、相手打者が打席に入り、審判が「プレイ」と試合開始を告げた。
捕手のワダが簡単なサインを出す。ヒロの緊張と身体をほぐすために、初球はコースを外れても良い直球(ストレート)だった。
しかし、ヒロは緊張でサインを見て解する余裕が無い。だから無我夢中のままに、両手を高く上げ、大きく振りかぶった。その後の上半身を大きく捻るヒロの独特のフォームに、打者はもちろん観客も目を奪われる。
ヒロの記念すべき初試合での第一投は、
「あいたっーー!」
打者のお尻に命中する死球だった。
本来なら帽子を取り、頭を下げて謝罪をするのが礼儀ではあるのだが、そういった行動を取ることをしないヒロ。その表情は顔面蒼白だった。
ワダはヒロの表情で心情を読み取り、ヒロの代わりに謝罪した。痛みに悶えつつ打者は一塁の方に進んでいく。
「こりゃ、そう簡単に終わらないかもな……」
ワダが不安な一言を呟きつつ、ヒロへと返球した。
次の打者が打席に立ち、ヒロは一塁に走者(ランナー)がいるにも関わらず大きく振りかぶってしまう。その隙を突き、一塁に居た走者が盗塁を敢行した。
ヒロは走者が走ったことを気にする余裕がなく、今度は打者に当てないことを意識し過ぎてか、外角を大きく外れるボール球となる。ワダは捕球すると、すかさず二塁へと投げようとしたが、走者は悠々と二塁に到達していた。
「三塁まで行かれるな……」
ワダの予言が当たる。
次の打者にも再びヒロは大きく振りかぶり、案の定ランナーは三塁へと盗塁を行ったのである。ヒロが投げた球はホームベースの手前でワンバウンドする暴投になってしまう。ワダは球を身体で止めるのが精一杯。とても、三塁手に投げて走者を刺すことは出来なかった。
わずか三球で走者が三塁に到達してしまった。
不甲斐ないヒロの投球に、観客からのざわつきの声が大きくなっていく。
『ありゃりゃ、セットポジションを……。そういえば教えてなかったような……』
スコアボードの天辺に腰を落として観戦していた野球の神様が震え声で漏らした。助けてあげたいが、もう干渉する力は残っていない。だから祈った。神様なのに。
『ヒロくんが無事に抑えますように』
無死で三塁。この状況では一点が入る可能性は高い。しかし、十点差がある現状で一点返されても、まだ大した問題ではない。ただヒロの状態を見るからに、そのビハインドの危険ラインが下がっている。グランドに立つメンバーや観客の誰もが「もう代えた方が良い」と心から思っていた。
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野球用語に『炎上』という言葉がある。
投手……主に中継ぎや抑え、いわゆる救援投手(リリーフピッチャー)が相手打者を抑えられず失点してしまうことを言う。そう、ヒロは炎上をしてしまっていた。
四球や暴投を連発してしまいランナーを出しては押し出しだったり、たまにストライクコースに行ったとしても難無く打たれてしまったりと、十点差あった点差が三点まで縮められていた。しかも、まだノーアウト満塁の状況である。
不甲斐ないヒロの投球に、
「おいおい、なに素人に投げさせているんだよ!」
「いいぞー! そのままでいいぞー!」
「大府内には他にまともなピッチャーはいないのか!」
観客や敵チームからもヤジが飛び交う。
ワダはふとベンチを見ると、イナオの姿が無かったことに気付く。「ふー」と疲れを吐き出すように息を吐いてからタイムを取り、ヒロがいるマウンドへと駆け寄った。
ヒロの顔は顔面蒼白から、完全に精気が抜けたように自失呆然となっていた。
「おい、しっかりしろヒョロ!」
「は、はい……」
ヒロの状態にワダは「やっぱり、時期早々だったかな」と思いながら頭を掻き、自分のミットで口を隠して話しかける。
「ヒョロ。もう、ここまできたら、せめて一泡を吹かせてやるぐらいしかないな。これから投げる球は、全部あの変化球だけだ。良いな!」
「変化球……」
「フォークボールだよ。どんなサインを出してもフォークボールを投げろ」
「は、はい……」
「よし。この登板を意味あるものにするぞ」
ワダはヒロの肩をポンっと叩き、硬式球をヒロのグラブの中に入れて、ホームベースへと戻っていく。
「フォークボール……」
腰を落としたワダは、適当なサインを出す。さっき言った通りに投げる球が決まっているからこその所作だった。そしてヒロは、また走者がいるにも関わらず大きく振りかぶった。だが満塁の状況で盗塁する者はいない。
ヒロの心情は、あの入部テストの時と同様に無我の境地に達していた。つまり、何も考えられない状態だった。
投じられた球が、外角の際どいコースへと直進していく。しかし、相手打者はバットを振る気配は無かった。ベンチ……監督から『待て』の指示が出ていたからだ。制球難の投手……ヒロに対しては、ただ立っているだけで良いと判断されていた。だから打者は投じられた球をじっくりと見ることが出来ていたが――
「ッ!」
こつ然と消えて、見失ってしまった。
その球の行方は審判のコールが「ボール」と宣告されて初めて気付いた。打者は思わず振り返り、見失った球の所在を確かめた。球はホームベース付近でワンバウンドしたが、ワダはなんとか捕球……ミットの中に球を収めていたのであった。打者の表情は入部テストの時のイマミヤと同じように驚いている。
「やっと、投げられたか……」
そうワダが内心で呟き、口元が緩む。続けて第二球もヒロはフォークボールを投じると、今度は内角へと。
打者は球が当たると判断して避けようと仰け反ったものの、球は大きく落下し打者の足下付近でバウンドしたのである。打者は片足を上げて間一髪で球を避けると、ワダは身体全体で球を受け止めた。
球を後逸させなかったことに、ワダは大きく息を吐いた。」
作品名:正しいフォークボールの投げ方 作家名:和本明子