そばにいて
おおぶりのアクセサリーを外す。「肩こったなー」とため息をつくと、「もっとちゃんと部屋を片付けしなさいよ」と小突かれる。「一緒に住もうよ」といつものように言うと、「絶対やだ」と睨まれる。おでん用のお皿を出すと、「それ洗ったやつだよね?」とみすずが覗き込むので「あーもー」と私はおおげさにぼやいてみせた。
テレビを付けて並んで座る、なんだかデジャブみたいだと思ったら、9.11のときと同じ状況だった。夜、おでんと白ワインとみすずと並んで座って見るテレビ。あのときは怖かった、と口に出して言った。飛行機が旋回してビルに突っ込んでいくのを、偶然眺めていたテレビが生中継で映し出したのだ、とんでもないことがたった今起こっている、それをみすずと一緒に体験しているというのが不思議だった。あのとき私たちは大学生で、顔を見合わせて興奮してあれこれ喋った。パイロットはもうとっくに殺されているに違いない、操縦しているのはきっとハイジャック犯だよ、だってこんなの絶対にありえない……。
目の前でたぶん、たくさんの人が死んだ。空中で砕けていく飛行機、天から崩れていくビル、飛び降りる黒い人影がゆっくり落下していく。
あおいが死んだのはそれから一年後だった、その知らせを聞いたとき、私は声もなく落下していく黒い人影を思い出さずにはいられなかった。本物の死体を見たのはおばあちゃんと飼っていたハムスターくらいだったのに、いとも簡単に見ず知らずの人の死の瞬間を受信し私に見せたテレビが憎らしかった。私にはなぜあおいが自殺を選んだのか、その理由を理解することができなかった。今でも分からない。どこをどう探しても、誰に尋ねて回っても、あおいの死について、何ひとつ具体的なものは見つけることができなかった。長い間ずっと一緒にいたはずなのに、あおいが本当は何を考えていたのか、私は少しも知ることがなかったのだった。
ぬるい白ワインの味が口に広がった。飲み込む一瞬、喉を誰かの手が触れて滑るような気がした。手を掴まえたいと思うけれど、すでにそれを飲み下していて、何も掴むことができない。行き場を求めてワイングラスの足を持った。透明で細いそれはまた誰かの指にも思えて、混乱したまま助けを求めるように私はみすずを振り返る。
みすずはみすずでテレビのバラエティを眺めているけれど少しも面白そうには見えない。頬杖をつき、お箸の先で大根をつついている。
私は言う。「ねえ、おでんと白ワインとこたつとテレビってさ、9.11のときとまったく同じなんだよ!」
「あ、そうだね」
みすずはワインで湿った唇をしていた。それを見て、私の唇も同じように湿っているんだと気付いた。
私は言った。「何を見ても何かを思い出さずにはいられないなんて、窮屈だと思わない?」
みすずは頬杖をついて言った。「それは当然、生きてる限り記憶が増えていくのは避けられないんだから、条件の合致する確率も必然的に増えていくよね。もしもこの調子で私たちが齢とっておばあちゃんになって一緒にこたつに座ってたらさ、例えばみかんと編み物で昔飼ってた猫のことを想起し、南蛮漬けとビールで別れた彼氏を想起して、っていう具合にえんえん連想ゲームみたいに続くわよね? 楽しくていいじゃない。80歳でガールズトークができるわよ」
「やだよ、そんなの、記憶を全部蓄え込んでいたら私毎日泣いてるきっと」
「なんで泣くの?」
「悲しいことの方が多いじゃん」
「楽しいことも多いよ、きっと」
「そんなことないよ」
「そっか、あんた彼氏と別れたばっかりだから」
「関係ないもん」
「あるでしょうが。散らかし過ぎで愛想尽かされたんじゃない」
「違うもん。好きになりきれないって言われたんだよ」
「ひどい言われよう」
「そうだよ、人間やめたくなる」
「人間の真似をしていた方が便利だよー」
煙草に火を付けた。「一本20円てうまい棒より高いなんてね」と言いながらみすずも私の手の中から抜き取って口に咥える。
「もう結婚できない予感がする」弱気になって呟いた。
するとみすずが笑って言う。「何て言ったって好きになりきれない女だしねえ」
みすずは細長い指に煙草を挟んでおいしそうに吸った。みすずは何事に対してもコントロールに長けていた。煙草は吸うけれど日常的には吸わない、酒は飲むけれど必要なときにしか飲まない、既婚者の恋人はいるけれど会えない理由を数えるのではなく会えるときだけが流れる時間だと割り切っている。小学校の頃からみすずは、痩せていて背がひょろりと高い女の子だった。先生に気にいられるタイプの子で、黒板係や教材係の仕事のときは子どもと言うよりは先生の仲間みたいだった。誰よりも真面目で誰よりも正しく、誰よりも賢明だった。そんなみすずが不倫をしているとみんなに打ち明けたとき、ほとんど全員が面白がった。みすずの長いストレートの髪は肩のあたりで無造作に結ばれているにも関わらず目を引くほどきれいだったし、みすずの態度は相変わらず調子を崩すことなく整然としていて立派だったけれど、私たちのうちの何人かは素早く察して、もうすぐみすずが内側からぼろぼろと崩れて行くんじゃないかと、そんな予感に胸をどきどきさせた。
けれどりかは冗談抜きで本気でみすずをなじった。
「あんたみたいな勘違いしてる奴がいるから世の中の不幸が増えるんだよっ」
みすずは声を抑えて言い返した。「何よ不幸ってばかみたい。多様性があるだけじゃない、あんたがそれを認められなくなっていいの? だったら誰があんたを許すの?」
みすずだってりかに対して不愉快な思いを押し殺していた、始終がさごそ動く子どもにりかはいらいらしているせいもあったけれど、ジュースをひっくり返したひなちゃんの頭を条件反射に叩き暴言を浴びせる姿を見て、普段からそういうことをしているのだとみんな気付いていた。けれどりかはりかなりに必死でやっていることをみんな知ってたし、その上でりかはひなちゃんを誰よりも愛しているはずだった。なぜならそれは同時に私たちが育ってきたものと同じ条件だったことを再確認する機会でもあったからだ。ひなちゃんはかつての私たちの姿であり、りかは現在のもう一人の私たちの姿であり、または母親としての正義でもあった。
「りかはあんな性格だし、相手がヤスくんじゃなかったら、とっくに離婚していただろうね」
「ヤスくんだって聖人じゃないよ」
「相性ってあるのかな」
「あるんじゃない」
「結婚て賭けみたいなものだよなー」
「私、子どもはいらない」
「え、なんで?」
「自分の遺伝子を増やしたくない。ぞっとする」
そしてみすずは目だけを動かして私を見た。「そろそろ本田さんのこと、ぶっ殺してやりたいって本気で思うことがある。怖いよね」
「愛が怒りに変わるってこと? 」
「そう。ストーカー的思考が自分の内側で生じるなんて」
「殺ししちゃだめだよ」
「うん、分かってる」
「他に好きな人見つけなきゃ」
「現実的じゃないなー」
「何が」