ミルクの化石とチェックの棺
空になったカップの底には、当然ミルクの化石なんかころがっていなくて、それはきっと全部コーヒーに溶けだしてしまって、私とひとつになった。ソーサーにカップを置く。陶器同士がかち合う音。カチャリと。
「あれ、もう帰るの?」
「うん。ちょっと片付けないといけない仕事があって。ごめんね」
手早くストールを首に巻きつけ、身支度を整える。上着のボタンをとじるのに妙に手こずって、私は慌てた。掌の表面になぜだがうっすらと汗をかいていて、ボタンが指の上を滑って行ってしまう。
「りっちゃん、この前のメールで鉢植えのことでなんか聞きたいことがあるって言ってなかったっけ?」
まごついている私に、ムツが椅子にかけたままで声をかける。
「ああ、もういいの。それは」
「そう? また、なんかわかんないことあったら聞きなよ。この前も言ったけど、グロキシニアは寒さには弱いから、最低でも5度以上のところで栽培するようにしてね」
「うん、わかってる。それじゃ」
コートの襟をただし、足早に出口へと向かう。じゃあまた、と後ろでムツが言うのが聞こえたが、振り返ることもせず、私は冷たいガラス扉を開けた。
屋外は思っていたよりも寒かった。
駅の電光掲示板は、気温4度を示している。二月ともなると、連日気温も一桁台が続く。私はこれから帰る自分の部屋、マンションの一室を思い浮かべて陰鬱とした。あの部屋は無駄に広くて、妙に狭い。自分一人で住むには、あまりに空白のスペースが多すぎる。
空欄を埋めるかのように置いた室内栽培の鉢植えも、この季節ともなると花弁を落とし、すでに色彩も褪せていた。
窓辺に飾っていたグロキシニアも、その中の一つだった。イワタバコ科の球根植物。一年中室内で栽培できるから、という理由でムツに薦めてもらった鉢植えで、夏には赤く美しい花をつけたが、秋に涼しくなってからは徐々に花を落とし、茎も枯れ、今は球根が土に埋まっているだけの状況だ。
グロキシニアの球根を生きたまま保ち、来年の夏にまた花を咲かせるには、最低でも5度以上の温度で管理しなくてはならない。そうでなければ、寒さに弱い品種であるから、球根は死んでしまう。花を買うときに、ムツに口酸っぱく言われていたことだった。それだったのに。
仕事に忙殺されていた。なかなか自宅に帰れなかった。それを理由にすることはできないだろう。私が、不注意であの鉢植えを寒く凍える窓際に放置してしまったのは事実で、果たして球根が生きているのかどうか、不安に思って植物に詳しいムツに助けを求めようとしたのも確かだ。
でも、もうそれもできない。
いや、聞けないわけじゃないけれど、だけど。
冷たい風が吹き、私の髪をさらっていく。コートの端を握りしめて、刺すような冷たさに耐える。あの子も、たった一人でこの寒さに耐えていたのだろうか。あの小さなケージの中、申し訳程度につまれたおがくずの下で。
あの日、ムーちゃんとお別れしたあの日、私はいつものように、妹と共にムーちゃんと遊ぼうとして、ケージの入り口をあけて、隅のほうで丸まっていた小さな彼に手をさしだした。いつもなら、もぞもぞと動き出してカジカジと甘噛みをしてくるはずのムーちゃんは、その日に限ってはぴくりとも動かなかった。体は妙に冷たく、心なしか固いような気もした。
妹はずっとムーちゃんに対して「大丈夫?」と語りかけていた。私はお母さんになんとか知らせて助けてもらおうと電話をかけてみたが、仕事中なのか、いっこうに電話に出ることはなかった。
私の頭には、数か月前に行われた、ひいおじいちゃんのお葬式の光景が浮かんでいた。棺の中で冷たく、小さくなったひいおじいちゃん。最後のお別れのとき、その体に触れてみたけど、妙にかさかさした肌、冷たく色も変わった皮膚が、思い出にある優しいひいおじいちゃんとはあまりにも違っていて恐ろしかった。
死んじゃったんだ。私は、そう思った。ムーちゃんは死んじゃったんだ、ひいおじいちゃんと同じに。だからちゃんとお墓にいれてあげなきゃ。棺を作って、土に埋めて。
私は嫌がる妹を説得して、冷たくなったムーちゃんの体をケージから取り出し、即席の棺、紙の袋にその小さな体を入れた。それは、小学校のお友達同士の手紙のやり取りで使う、色鮮やかな封筒。私は普段使っているものからお気に入りだった赤いチェックの封筒を選んだ。
お墓に選んだのは、近所の空き地だった。移植小手で冷たい土の地面を掘り、10センチほど進んだところで、そのチェックの棺を穴に入れて土をかける。妹は、作業を進める私の傍らで、なんでムーちゃんを埋めちゃうの、と泣きわめいていた。私は妹に、死んでしまったムーちゃんのためにはこうするのが一番なのだと言い聞かせた。もうムーちゃんは元気にはならない、もとに戻れないのなら、埋めてしまうのが一番いいのだと。ムーちゃんを埋めた土の上には、木の枝を縦にさして、私たちはそれを墓標とした。何度かお参りに行ったが、1週間ほどすると、木の枝もどこかになくなってしまって、どこに埋めてしまったのかもわからなくなった。
ジャンガリアンハムスターは、気温5度を下回ると、冬眠に入る。
私がそれを知ったのは、それから3年も過ぎた小学5年生の時だった。
普通、家に飼われるハムスターは冬眠に入ることはないが、冷たく寒いところにいると疑似冬眠に入る。体温、脈拍が低下し、眠ったまま起きない状態が続く。知識のない人の場合、死んでしまったと勘違いしてしまう場合もある。テレビ番組でそのことが紹介されているのを見たとき、私は血の気が引いた。
ムーちゃんは死んでいなかったのかもしれない。ただ、冬眠していただけだったのかもしれない。私は、それを死んでいると勘違いして、病院に連れて行ってやることもしないで、ムーちゃんを生きたままに埋葬した。ただ、早々に諦めるばかりで。
私はすぐにチャンネルを握ってテレビの電源を消し、そして同時に自分の記憶からもムーちゃんのことを追いやろうとした。幸い、妹は当時のことをあまり克明に覚えていなかったこともあり、誰にも私の間違いは誰にも指摘することはなかったが、どうしてもすべての記憶を拭い去ることはできなかった。
私がムツとの関係を続けたのは、あるいは贖罪のつもりだったのかもしれない。どことなくムーちゃんを連想させるムツ。彼を傷つけないよう、親交を深めることでムーちゃんへの罪の意識を晴らそうとして。しかし、どちらにせよ私がムツを利用していたことには変わりない。一人の女としても、一人の飼い主としてもムツという存在を都合よく使っていた。
マンションに帰りつくころには、日もほとんど沈んでいた。
暗い部屋に駆け込み、電気もつけずにソファーに座りこむ。人工革のソファーの表面はひんやりとしていて居心地が悪い。ここは寒くて冷たいばかりだ。まるで土の中のように。
床に投げ出した鞄の隙間から、赤いチェックの封筒の端がのぞいている。珠美が私に宛てた手紙。
作品名:ミルクの化石とチェックの棺 作家名:pikipiki