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ミルクの化石とチェックの棺

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 「またまた、そんなこといって。りっちゃんならきっとこれからいい旦那さんが見つかるよ。それに、僕とはそんな間柄じゃないでしょ」

 「男女の友情、ねぇ。学生の時は、そんなもの存在しないと思ってたなぁ」

 「そうなの?」

 「うん。近づいてくる男はみんなオオカミなのよ、って。昔、そんな歌あったじゃない? そんな感じ。まぁ、ムツはそうじゃなかったんだけどさ」

 私の言葉に、ムツは少し俯き気味に笑みを浮かべる。私は、ムツのその笑みにほんの少し、後ろめたさと自嘲が混じっていることを知っている。

 大学を卒業した後、新しい環境と、初めて経験する社会での仕事というものに忙殺されて、私たちゼミのメンバーも関係が希薄になりつつあった。そんな中、皆の予定が空いている日をせっせと聞き出して、積極的に幹事として同窓会と称した飲み会を開いたのはムツだった。

 ムツから同窓会開催のメールが届くたび、私はまたか、と思うのと同時に、若干の誇らしさを覚えていた。自分と会う為に、自分の気を引くために、自分よりもずっと図体の大きい一人の男が駆けずりまわっている姿を想像するたび、私は自分の女性としての価値の高さを確認できた。時には快く参加し、時には忙しさを理由に参加を断り、そんな私の返事一つ一つに、大きな体を揺らして一喜一憂するムツは、まるで自分に忠実なペットのように感じられて愛らしかった。

 ムツは、大学生の時からずっと私に恋をしていた。それは憧れと言ってもよいかもしれない。私を傷つけないように、私に嫌われないように、近づきすぎず、離れすぎず、何かと世話を焼き、優しく接してくるムツは、春の太陽のように温かくもあり、同時に暑苦しくもあった。

 あからさまなムツの態度から、ゼミのメンバーには彼の私に対する気持ちは筒抜けだった。そしてそれは常に嘲笑の的でもあった。

 


 「律子、そろそろムツに言ってやれよ、いい加減ウザイ、って」

 大宮君は、時々ベッドの上で私の耳元にそう囁いた。

「いいって。放っときなよ。……それとも、もしかして嫉妬してる?」

 彼の腕の中で、そう言って挑発的にあざとく笑みを浮かべていた私にとって、ムツの思いや行動なんて、自分の順調で充実した退屈な学生生活にほんの少しの工夫を加えるための、調味料程度のものでしかなかった。時には私の自尊心を満たす甘いシュガー、また時には、マンネリ化する彼との逢瀬にちょっぴりの刺激と変化を加えるスパイス。

 「そんなわけじゃないけどよぉ……。だって暑苦しいだろ、あいつ」

 大宮君の引き締まった長い腕が、私を抱き寄せる。予想通りの反応を示す目の前の男の姿に満足しながら、私はぴったりと彼と肌を合わせ、囁いた。

 「安心してよ。……私、ああいうトロくさそうな男、嫌いなの」




 私がムツにはっきりとした拒絶を示さなかったのは、ムツという人間が所謂“悪質なストーカー”になるようには思えなかった、彼の人間性にある程度の信頼を置いていたというのもあるが、なによりも女としてちやほやされる、何の見返りもなく自分に奉仕する男がいるという事実が誇らしかったという理由によることだった。

 時が流れ、大宮君やほかのゼミのメンバーとも付き合いがなくなった後も、私とムツの関係は続いた。騒々しい居酒屋よりも、静かなところでコーヒーが飲みたいという私の注文に応えて、集まる場所はカフェへと変わったが、二人だけの同窓会は最低でも月に一度くらいは行われた。

 回を重ねるにつれて、私とムツは、同じ学び舎で過ごしていた時よりもすっかりと親しくなったが、それでも、ムツは相変わらず優しく微笑んで世話を焼いては話を聞くだけで、私に直接手を出そうとも、交際を求めようともしなかったし、私自身ムツの気持ちを知りながら、それに応えようともしなかった。
考えてみればそれはつまり、私からムツに対する、遠回りで緩やかな、拒絶だったのだろう。

 「でも、ムツが結婚したら、こうやってコーヒー飲むことも少なくなるね」

 カップの三分の一ほどまで減ったブラウンのコーヒーを揺らしながらそう呟く。寂しさと、親しみと、祝福の、3・3・1のブレンドで。

 「そうかなあ。別に遠くに引っ越すわけでもないし……」

 「そうじゃなくてさ。珠美だって嫌がるでしょう。旦那が自分以外の女と二人っきりでカフェで会ってるなんて」

 「だったら、タマちゃんも連れてくるよ。ここのシフォンケーキ、美味しいってけっこう評判みたいで。タマちゃんも食べてみたいっていってたから」

 「……だからそうじゃないんだって」

 ムツのとぼけた返事に苛立ち、またそうして苛立っている自分も不快だった。一瞬、ムツがわざとこんな返答をしているんじゃないかとも疑ったが、そうでないことは私が一番知っている。ムツは、本当に、心の底から私のことを“ただの友達”と思ってくれているから。

 「っていうか、ここのケーキ食べたがっているんなら、今日連れてくればよかったじゃない。どうせ結婚の報告するんだったらそっちの方が都合いいだろうし。どうして一人で来たのよ」

 少しだけ期待して、私はムツを問いただす。

 「タマちゃん、今日病院なんだ。お母さん、少し悪いらしくて。本当は僕もそっちに行くべきだったんだろうけど、今日はこっちを優先させてもらったんだ。私たちを引き合わせてくれた人に、きちんと報告すべきだっていうタマちゃんの発案だったしね。タマちゃんも、本当はりっちゃんと直に会って報告したかったって言ってたんだけどね。今日はこれだけ預かってきた」

 そういうと、ムツは懐から一枚の封筒を取り出した。

 それは、まるで小学生や中学生の女の子が、友達との手紙のやり取りに使うような赤いチェックの小さな封筒だった。表には「松原律子様」と独特な丸っこい字で宛名が書かれている。裏返すと、右下の方に小さく「睦島 珠美」と差出人の名前が書かれていた。

 「……そっか。もう、籍は入れたんだっけ」

 「うん。思い立ったが吉日ってやつかな。この場合、籍を入れた方が結婚記念日になるのかな。それとも式の日?」

 手にした小さな封筒は、妙にカサカサとした無機質な手触りで、私を不安にさせた。赤い格子の奥に秘められた、メッセージ。何か、すごく嫌なものを思い出してしまいそうな気がして、私はそれを急いでバッグの中にしまった。

 「普通に考えれば籍を入れた日よ。結婚記念日を間違えでもしたら、たとえ相手が珠美だったとしても、後で大変なんだからね。女はそういうの、神経質に気にするんだから。ちゃんと手帳にでも書いておくこと。……この手紙は帰ってから読ませてもらうね。私、外だとあんまり集中して文字読めないタイプだし」

 「あ、うん。タマちゃんが言ってたけど、別に返事とは無理して書かなくてもいいからね。どうせまた、職場であうだろうからって」

 「わかった。じゃあ、珠美によろしく伝えといて。結婚おめでとう、って」

 カップに残ったコーヒーを飲み干して、私は立ち上がる。