愛道局
必要以上にゴシゴシと手を洗い、匂いも嗅いでみる。水道水の匂いか、部屋の匂いか分からなかった。さらに顔を洗おうとして、両手を合わせて水をため顔に持っていこうとしてメガネをかけたままだと気付いた。時すでに遅く、メガネを洗ってしまった。
「くくく」と老婆の少しくぐもった笑い声がした。山本は見られたのだろうかと思い、ベッドを見たが、老婆は相変わらず天井を向いたままだった。(偶然だろうか)と思いながらメガネをハンカチで拭いて、顔を洗い直す。少し湿っぽくなってしまったハンカチで顔を拭い終わると、いくらかすっきりしたようだ。
山本は改めて老婆の脇に立って見下ろした。少し顔が自分を向いたような気がしたが、視点はさらに後ろのほうに合っている感じだ。山本は後ろを振り返って見た。窓と窓の間にカレンダーがあるだけだった。
「もう春だよ」と老婆に向かって言ってみる。
「寝てもいいですか」
老婆はそう言った。(あれっ)と山本は、老婆が痴呆ではないのかと思って、さらに注意を向けた。
「先生、寝てもいいですか」
いつの間にか先生になっているし、山本は(もう寝てるじゃないか)と思いながら、
「はい、いいですよ」と言って、軽く布団を叩いてみた。
「先生、眠っていいですか」
(この老婆は俺をからかっているのではないだろうか)山本は老婆の眼を見た。しかし、視点がどこにあるかわからない眼を見て、からかっているとは思えなかった。さっきの笑いといい、絶妙なタイミングではないかと思って、苦笑する。
「どうぞ」と少し投げやりに答えると、
「先生、寝てもいいですか」と前に戻ってしまった。
山本も少し考えてから「かあちゃん」と言って、様子を見た。少し間を置いて、
「ヨシオ?、ミツオ? カツオ、マグロ」
老婆はそう言い終えてから、口をモゴモゴさせて、そして静かになった。山本は腰の疲れを覚えて、立ったままであることに気付いた。椅子に座って、ふうっとため息をつく。
どうやら先生がOKを出す前に眠ってしまったらしい。
(帰るよ)と心で言って部屋を出た。