愛道局
小太りさんは「こちらです」と言って、たった今山本が乗ってきたエレベーターに向かった。そしてボタンを押してから、腕時計をみた。そしてすぐエレベーターの動きを示す灯りを見ている。山本はその横顔を見て、案外平面的なのに少しがっかりしてやはり点灯する灯りと数字を見上げた。
エレベーターを降りて、つい小太りさんのお尻に視線が行ってしまうのを、引きはがして廊下を進みながら開いている部屋の中を見た。ベッドとベッドの間が狭く、見るだけで息苦しさを思えた。
小太りさんはおざなりに403号室のドアをノックしてすぐにドアを開けた。「辻さーん。入りますよう」と、すでに中に入ってから言った。入って直ぐに洗面所がある。3畳ぐらいの部屋、一応個室だった。ベッドには老婆が寝ていた。
「辻さーん。お見舞いですよう」と小太りさんは、老婆の耳元に顔を近付けて大きな声で言った。山本は老婆の耳が壊れないかと心配してしまった。
「誰かナー」と言いながら、小太りさんが目で合図するので、山本はおずおずとベッドに近づいた。
看護師と老婆と病室の匂いで、山本の頭はぼうっとしてしまう。それでも、もう亡くなってしまった自分の母親と同じぐらいだろうかと思って、顔を近付けた。
「……お…か」と老婆が呟く。
「よかったねえ」と言いながら小太りさんが老婆の手を握った。そしてその手を山本に渡すような仕草をしたので、つられたように老婆に手を差し出した。油でもぬったようにぬめっとした感触が手に伝わり、思わず嫌悪感を感じた。老婆の顔は天井を向いたままであり、焦点も遠くにあるように見えた。目も悪いのだろうか。山本は握った手をどうしたものかと小太りさんに助けを求めるように見たが、気付いてくれなかった。
小太りさんが、老婆に話しかけている間、山本はべったりとした感触が消えない手を早く洗いたいという思いが強くなって行く。
腰がひけたままベッド脇で山本は、自分の母親を見舞った時のことを思い出した。手も握ったし足ももんで上げた。おでこに触って熱も確かめたっけ。肉親と他人ではこんなに違うものかと思った。
山本は洗面所の方をちらっと見た。ああ手を洗いたい。でも、いかにもそれでは失礼ではなかろうか。この老婆はどのくらい分かっているのだろう。多分痴呆症状が出ているから、他人の見舞いをさせるのだろうなあと考えた。
「それじゃ、あとはご自由に」と言って、小太りさんは出ていこうとした。
「え、ど、あと、どうすればいいの」
山本が尋ねると、小太りさんは少し同情したような顔で「このままお帰りになっても、話しをされても自由です。お帰りにナースステーションに声をかけてください」と言ってから、少し小声で「辻さんね、息子さんだと思っていると思います」と言って出ていった。
山本は、ベッド脇の椅子に腰を下ろし、老婆を見た。顔は相変わらず天井を向いたままだった。息苦しく感じて、大きく息を吸ってみたが、かえって不快感が増してしまった。山本は立ち上がり、洗面所へ向かった。