和尚さんの法話 「後生を認める」
一番簡単な言い方をすれば、一番大きな宗教がまずは一番安全だと思いますね。つまり船、一番大きな船。ボートのような船ではだめですね。
私はこう思いますけどキリスト教も含めて、仏教が一番大きな船だと思う。
どの宗教にも宗教というのは教祖をいうのはあるんですね。キリスト教にはキリストが教祖。マホメット今日にはマホメットが教祖というように教祖というのが初めてその宗教を説いた人があるわけです。
ところがこの仏教は、この地球上に、歴史上に現れた如来様はお釈迦様お一人で、そのお釈迦様がお開きになった仏教を我々は学んでいるわけですけれども、お釈迦様の予言によれば、末法は一万二千年で仏教は消えていくというふうに説かれてますね。
ところが、無くなってしまって、そして人類も無くなってしまう。そしてまた次の地球が出来る。今出来てるんだから過去にもあったに違いない、将来も出来るに違いないですね。一遍出来てるんだから、また出来るはずです。
太陽も月もまた必ず出来てくるに違いない。
その前に一遍消えてしまう。
ビックバンというのでしょうか、古くなった惑星は爆発して飛び散ってしまうと、テレビで見たことがあります。
そしてまた散りが集まって星が出来ると。
新しく出来た惑星に地球が出来たのと同じように繰り返し、生物が発生する。
そして進化して人間というふうにね。それを永遠の過去から繰り返してるんですね。お経にはそういう所が出てきます。
そしてお釈迦様が亡くなって、五十六億七千万年たったら、弥勒という人がまたこの世へ出てきて、お釈迦様と同じように悟りを開いて、そして新たに仏教が始まると。
お釈迦様の何劫か前にカショウ仏という方がいらっしゃってそして仏教を開いて、帰依してお釈迦様。
その何劫か前にも無数の仏様があるとお経に出てきますね。恒河砂数の仏有りと。浜の真砂の数ほどの仏。
だから仏教には無数の教祖様がいるわけです。
恒河砂数の仏の数が過去にもあり、未来にもあると。
こういうことを説いてるのは仏教だけしかないですね。
他のバイブルにも無いと思いますしコウライにも無いと思いますね。
三大宗教というのは仏教とキリストとマホメットだけですからね。
だから過去の仏様、未来の仏様が次から次から出てきて仏教を広める。そういう大きな宗教だということです。
だからこの宗教を置いて何故他の宗教にいくのか。それは仏教の話しを聞かないからですね。今の坊さんは仏教を説かないからですね。
こんな立派な仏教であるのに誰も説かない。
今この世に弘法大師のような方がいたら大違いなんですがね。弘法大師は超能力もありましたしね。
兎に角、あの世というところがあるけれども、平坦なばかりじゃなく地獄もあり餓鬼もあるんだということです。
和尚さんは鬼に囲まれて出てきた精霊も見ましたというお話しも何度も紹介しました。鬼にも形があるし、やはり絵で見るような格好をしているそうです。
お婆さんが一人座って出てきて、鬼に監視されている。このお婆さんは地獄に落ちた人に違いない。それで行いを聞いてみたら、とんでもないお婆さんだったんですね。
そういうことがほんとうに信じられないと、我々はこの世のことばっかりに明けくれ明け暮れしていて、死んであの世へいったら、えらいことをしたと。こうなるわけですよ。
兎に角、この世で目をつむって永眠といいますが、それは永眠じゃない、一時ですよ。一時の目をつむって、あの世へいってまた目を開くんです。そしてあの世の生活が始まるんです。
今晩寝て明日の朝目が開くように、この世で目をつむって開いたらあの世が始まる。
しかもあの世の生活は、この世の行いによって決まる。
それはもうどうしようもないんですね。あの世へ行って、おまえはここ、おまえはここと振り分けられてしまう。
自分はあそこは嫌だからここへ行きたいと言ってもそうはいかない。自分のしてきた行い、それに相応しい世界へ振り向けられる。
閻魔さんもいらっしゃいますし、鬼もいます。
阿弥陀様もいらっしゃればお釈迦様もあの世にちゃんといらっしゃるのです。
だからお経に説いてあるのは全部ほんとうだということです。
それを本当だと信じられないのは口はばったいことですが体験をお持ちじゃない。死んであの世へ行ったらしまったなと、間違いをしたなということに気が付くだろうと思うんですけどね。
これも以前に聞いてもらってるお話しかと思いますが、中国の坊さんのお話しですが、その坊さんはあの世というのをあまく考えていたわけです。
因果の道理というようなものはないと。善因善果悪因悪果というのは凡夫の諭す沙汰じゃ、一旦修行をして悟ったらもうなにをしようがわしはもう何をしてもいいんだと。
百丈山という山があるんですね。その山に隠遁していた偉い坊さんが居って、人呼んで百丈禅師と、山の名前で呼んでたんですね。
いつも説法してたら道場の隅で見知らぬ老人が聞いてたんですね。あれは見かけぬ男じゃな、誰だろうなと。毎日何処からか出てきて聞いてるんですね。
そして一番最後に弟子たちが去るまで残ってる。
それでお前はいったい誰だと聞いた。他の人はその老人が見えない。百丈は悟った人だから見えるんですね。
それで他の弟子が去ったあとで、お前は誰だと聞いたら、私はかつてこの百丈山で住んでいた僧だと。
それで多くの弟子を教育していて、或る時に或る弟子が、修行を徹底して一旦悟ったら、もう良いことをしようが悪いことをしようが、良いことはいいが悪いことをしても善因善果悪因悪果で苦しい世界へ落ちるとか業を受けるとか、そんなことがあるんですか、ないんですかとこういう質問を有る弟子がしたんです。
そんなものはないと、凡夫は悪いことをしたら悪い報いを受けるけれども、いったん悟ってしまったら何をしたって大丈夫だと、善因善果悪因悪果とそんなものは無いんだと、こういう答えをしたというんですね。
ところが自分はそれが正しいと思っていた。多くの弟子をそれで教化しているわけです。
ところが仏様の目出ご覧になったら、悟ろうが悟らまいがそれは関係ない。良いことをしたら良い報いがあり、悪いことをしたら悪い報いがあるのは聖者も凡夫も一緒なんだ。ということで、それは死んで初めて分かったというんですね。
だから多くの人を騙したというその報いで、キツネになったというんですね。
これは百丈禅師の伝記ですから本当のお話しなんです。
「野孤伝」という伝記ですね。
それで初めて自分の過ちを悟って、なんとかして再び人間に帰りたいと、生まれる機会が無くて生まれても生まれてもキツネばっかりに生まれ変わってきてるんですね。
なかなか人間界へ帰れない。それで貴方様が最近この山で妙法をお説きになるのでなんとかして救ってもらいたい、元の人間に帰してもらいたいと思うて毎日毎日聴聞してますと。
つきましてはお尋ねしたいというて質問したのが、悟った者でも悪いことをしたらその報いを受けるんですかと聞いたら、それは受けると。
善悪は聖者凡夫の隔ては無いんだと。悟りを開いた人も悪いことをしたらその報いは必ず受けるんだと。いうことを百丈が答えたんです。当たり前のことを説いたんです。
作品名:和尚さんの法話 「後生を認める」 作家名:みわ