和尚さんの法話 「後生を認める」
それで大事なお経を結集するのに、皆が自分を必要としてくれてるのに阿羅漢でないがために、単に位をいってるんじゃないんです、阿羅漢というのはなにもかも知りつくした境地ですからね。だからある程度の体験が出来てる人です。
ところが阿難は阿羅漢ではないからもうひとつという体験が出来てないわけです。
だから入れることは出来ない、やっぱり阿羅漢にならんと欠けるものが出てくる。そうするとお経を私は聞いてる、お釈迦様がこう言ったといっても誤る恐れがあるんですね。
だから阿羅漢ではない阿難を入れるわけにはいかないんだと。それで四百九十九人で始めようかということになった。
それで阿難は実に残念だと。残念ということは結集ということに参加出来ないことの悔しさじゃなくて、大切なお経を集めるのに自分というのが必要であろうが覚りが足りないがために参加できないのが残念だと。なんとかしてこの五百人の中に入りたい。それは名誉とかじゃなくて、お経のために。經典を守るために。
それでなんとかして覚りを開かないといかんと、結集までになんとかして阿羅漢にならないといかんというので必死の定をするわけです。定とは禅定のことでつまり滅尽定です。阿羅漢の覚りの境地は滅尽定。
そして滅尽定に入るんです。とうとう阿羅漢に成れるんですね。
それで阿難が、ひとつの洞窟の中で結集が始まろうかというとき、阿難が外から合図して、阿難でございますと。
どうしたんだ。
はい、私は阿羅漢に成りました。だからどうぞ私を結集に加えて下さい。
すると迦葉が、洞窟の中から、ああなるほど阿羅漢に成ったなと。こういう境地の人は皆分かるんですね。超能力の人たちばっかりですから。洞窟の外の阿難が阿羅漢になったかどうか、洞窟の中からでも分かるんですね。そういう境地があるんです、我々が分からない境地がね。
そしてどうぞ私を入れて下さいというと、迦葉が阿羅漢に成ったんだから開けなくても入ってこれるだろうと言った。
肉体は入れないけど阿難は洞窟の外で上に入って肉体から抜けてすうっと洞窟に入った。
そういう場面がお経の中にあるんです。
そういうことはある程度体験が無いと、そんなアホなことがあるかということになるんですね。
超能力というのか神通力というのか、それに憧れて飛び跳ねてみたりする人がいるようですが、超能力、神通力に憧れてる人があるわけですね。その超能力を求めて修行をするというようなことは邪道です。
仏教の悟りとかいうものは、技術じゃない。稽古をしてなるというものじゃないんですね。
お琴を習うとか三味線を習うとかピアノを習うとかというのは稽古をして上達する、技術ですね。
ところが悟りというものは技術じゃない。
悟りとは煩悩との対決でしょ。これを消すことが悟りですね。悟りが高いということは煩悩が少ないということですね。
そして全部煩悩が無くなってしまった人を阿羅漢というのです。
それでも仏様よりはもうちょっと煩悩が残ってる部分があるんですね。
煩悩が少なくなれば悟りが高まる。だんだんと煩悩が少なくなって悟りが高くなって、終いに煩悩が無くなって、滅尽定という定を体験出来て阿羅漢です。
そういうふうな仏教のあらましをざあっと申したんですが、仏教の体験というのかそういう世界があるということを大雑把にいいました。
中国で念仏を体制なさった善導大師というお方がありますね。浄土宗のお仏壇を見ましたら、阿弥陀様の右側にあって下半身が金色のお坊さんがありますね、あの方が善導大師です。左側が法然上人ですね。
その善導大師が言われた言葉です。
生死甚難
厭仏法
復難欣
これは、生死甚(はなは)だ厭(いと)い難く
仏法復(また)欣(よろこび)難し
こういう文章をお作りになってるんですが、お経のようになってますね。
この生死というのは輪廻ということですね。その輪廻を厭う。輪廻したくない。
解脱したいという気持ちがなかなかなれない。ということですね。
そして仏法は有り難いんだぞと信じる。信じていたら解脱するんだぞと、話には聞かされてもこの仏法はなかなか欣(よろこび)難い。求め難いという、こういう善導大師の残された言葉ですね。
よく生死の海と、海に例える場合があるんですね。その生死の海に我々は漂うていると。こういう表現がよく出てきますね。
そしてその生死の海を助けて向こうへ渡してくれるのが、仏法という法の船。これも例えの言葉ですね。
仏法は即ち生死の海を渡してくれる船であると。薬に例えたり、船に例えたりといろいろ例えがあるわけです。
生死の海。生死ということは、生まれたり死んだり生まれたり死んだりですね。
これはまた別の和讃のなかの言葉ですが、「生死の里に生まれ来て生死を悟る人はなく」
生死生死と聞かされるけど、生死とはいったいどういうことなんだと。現に我々は生死ということは輪廻、人間界は輪廻の世界ですから、その輪廻の世界へ生まれてきておりながら、その輪廻ということについて気が付かない。
「無常の境に住む者も無常を知れる事ぞなき」
生死は即ち無常ということですね。生まれたり死んだり生まれたり死んだりと変化していく。
変化していくということは、常が無いということですね。
さあっと変わって行くような変化の仕方もあるでしょうし、我々の目に見えない変化の仕方もあるわけですよね。
この地球だって我々は分からないけれども、変化しているはずなんですよ。
地球でも月でも太陽でもだんだんだんだん破壊されていくはずなんですよ。
そういう目に見えない変化もあるけれども、兎に角朝太陽が出て夕暮れには沈むというのはこれはもう無常ですね。常が無い。
昨日まであの人は元気にしていたのに、今日はもう死んだ。とこうなるともう無常ですね。
そういう生まれたり死んだり、生じたり滅したりというその無常の境に住む者も、というのは我々のことでしょ。無常を知れる事ぞなき。この無常というのはどういうことなんだと。
「仏道に志す者は無常を心得るべし。無常を心得る者は地獄を怖るべし」
とこうなってるんですよ。だからそういうまずはあの世を信じる。あの世があるんだということを信じる。
そしてその次には、地獄もあるんだと、これを信じないと救われたいという気持ちが切に起らない。
玄界灘という海がありますが、大変な大波が押し寄せては引いてますね。その海を船頭さんを信じてるから渡れますが、我々が自分の力でその荒波の海を渡ることを迫られたらどうしますか。伝送大師はそういう例えを持ってきていますけれども、なんとかしてこの海を渡らんならんと考えるわけです。後ろから敵が攻めてきてるから捕まったら殺される。この海を渡るほかはないんだと。
岸には船がたくさんある。そのときに皆さんは、一番近いところにあるからこの船に乗るとか、形のいい船だからこの船に乗るとか選んでいたらもう攻められてしまいますね。
どの船が安全に向こう岸へ渡してくれる船であろうかというところを目をあてて船を選ぶはずですね。
その船というのが、宗教なんですね。
だからそういうふうに宗教というのを選ばないといかんのですね。
作品名:和尚さんの法話 「後生を認める」 作家名:みわ