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和尚さんの法話 「後生を認める」

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天上界でも二十八あるというのです。
その二十八のひとつひとつの間にもたくさんの段階があるんですね。
あの世のいいところはいいのですが、地獄にしても上中下、上中下と、地獄だってひとつじゃない。そういうあの世にも良いところもあり悪いところもある。
それは何故そういうところがあるかというと、我々のこの世の行いの善悪によって行くところが定まるのだと。これはお経に説いてますね。
ところがあの世を信じない人は、そういうことを信じられない。これはもう仏教文学だと、こういうふうになってきますね。
だから仏教というものは、体験をしないと分からない。
その体験ということは覚りということですね。ひとつのことを覚っていくということですね。
体験をして知るということが覚りです。
単に目の前に見えるものがあるというのではなくて、こんな世界があるのかこういう世界もあるのかと、それは皆心の中なんですよ。禅定ですね。
禅定という世界。そういう世界から説かれてきたものが仏教なんです。
そういう境地が全く分からない、分からなかったら永遠に救われない、というところに他力浄土門というのが存在するわけですね。
禅定もなにもいらない、ただひたすら南無阿弥陀仏によって極楽往生を願えばそれだけでいいわけです。
ただ阿弥陀様が存在する極楽は実在すると、これは認めなければだめですね。極楽はあの世ですから。これを信じられなければ浄土門もつまり信心も得られない。
兎に角、あの世はある。霊界はあるんだと、これが根本的な様態ですね。
今日ニュースを見てますと簡単に殺人が行われていますが、仏教は不殺生戒という戒律がある。殺生というのは一番罪が重い。
それを今の人は簡単にやってしまう。そういう人は仏教を心得ている人ではないですね。悪魔の化身というような人ですね。

あの世というところは、ひとつじゃない。段階があるわけです。
あのオウムの宗教も解脱という言葉をいってますが、解脱という言葉は仏教の言葉ですね。
この解脱ということは、生死解脱という意味ですね。生死を解脱する。生死ということは、生まれたり死んだり生まれたり死んだりということです。つまり輪廻ですね。
我々は今、この世へ輪廻してきてるわけです。
我々がこうして人間界に生きてるということはもう迷ってる証拠です。
人間界は六道の中の欲界ですからね。欲界の上に色界、その上に無色界と、この三つに分けて三界というのです。
だから解脱というのは、三界解脱ともいいます。
この三界の中に輪廻があるわけですから、ここから出ることを解脱というわけです。もう輪廻しない。
輪廻しない人はどうするのかといいますと、あの世に居る。あの世でずうっと衆生済度してる。例えば、お地蔵様とか観音様とかお不動様とかそういう方々はあの世に居って、阿弥陀様でもお釈迦様でも、あの世に居って衆生済度しているわけです。
そしてこの世の我々にも病気を治して下さい、安産させて下さいというようなことでも授けて頂ける。そういうふうにあの世の衆生もこの世の衆生もお救いになってる、そのお仕事だけでも大変な、勿体ない話ですよね。自分の楽しみというようなことは何も無い、ただ衆生済度ばっかりなさってるわけです。
なんとかして三界から出したい。三界に居てる間は欲界から無色界まで上がったり下がったりして、そこから出るというチャンスがない。それはほんとうの覚り、ほんとうの信仰というのを持たないから、或る時は善いことをして良いところへ行き、また或る時は悪いことをして悪いところへ行くという、ぐるぐるぐるぐると繰り返している。
解脱ということは、生死。生まれたり死んだりすることを卒業すると、こういうことです。
オウムのいう解脱は飛んだり跳ねたりすることが解脱だというけど、あれは体操で、ほんとうの空中浮遊というものは、肉体じゃないんですよ。肉体じゃなくて、例えば座禅を組んで、そしてある境地に入ったら自由にこの霊魂が肉体から出ることが出来るんです。
お釈迦様が、前にもご説明をしましたけれども、インドに霊鷲仙という山があって、その山でお説法をしていたわけです。
其の時の国王の太子が悪い子供で、早く国王に成りたいために自分の父である王様を牢獄へ入れてしまうわけです。
その王は、お釈迦様に帰依していたわけです。牢獄の中でさめざめと嘆くんですね。今までだったらお釈迦様に供養も出来るし、お釈迦様の説法も聞かせて頂いてたが、こんな牢へ入れられたらもうお釈迦様に会うことも出来ないというと嘆くんです。
するとお釈迦様は、霊鷲仙に居ってそれを超能力によってその心を見抜いてしまうんですね。
そこでお釈迦様が、霊鷲仙からその牢の中へ飛んで入ってくるわけです。
そういう場面をまえにもお話ししたと思います、観無量寿経のお話しだったと思いますが、それは肉体じゃないんです。
それはお釈迦様が霊鷲仙で禅定に入って、そして肉体から抜けて、そして空中を飛んできて、そして牢の中へ入ってくる。舎利弗と目連を伴ってね。
そしてあのお経の最後の締めくくりのところに、「足虚空を踏んで霊鷲仙に帰り給う」とこうなってます。
お説法もすんで、変えるときですね。足虚空を踏んでというのは空中を踏んで歩いて、いかにも道が有るが如く空を踏んで霊鷲仙へ帰る。ぱあっと飛んでいかないんですね。
こういうことは、或る程度体験を持たないと、こんなアホなことはあるかと思うんですよ。それは肉体が歩くと思っているから。
そうじゃないんです。それは霊魂が、戸を閉めてあたったってすうと透っていくんですよ。

いろんな話がありますけれども、お釈迦様がお亡くなりになって、そして結集(けつじゅう)ということをするわけですね。
結集というのは、お経が散出してしまわないように集めるわけですね。
第一結集、第二結集、第三結集とあるんですが、その第一結集というのが、お釈迦様がお亡くなりになって初七日から始まったとお経に出てきますね。
それは、お釈迦様が何処でどういうお経を説いたか、何処でお釈迦様はどういうお経を説いたかということを文字にしてる、つまりお経にしていくわけです。
昔はあの人たちは皆主に暗記していたみたいですね。そういうことじゃ将来に伝えることが出来ないからというので、そこで五百羅漢を集めたんですね。千二百五十人の中から、特に五百人、所謂五百羅漢といいますね、五百人を選んで、そして結集する。と、こういうことになってきて、そして四百九十九人までは決まったんですね。勿論舎利弗、目連も入ってますけど迦葉という人がありますけがお釈迦様のお弟子の長老ですね。お釈迦様より二つほど年が上だったように思いますが迦葉というお弟子さん。この人が上司となって五百羅漢を集めて結集しようと、こうなった。ところが四百九十九人までは集めたけどもう一人、阿難。この人を入れたい。何故かといいましたら始めから終わりまでお釈迦様に付いて廻って、どんなお経も全部聞いてある。この人をなんとかして五百人の中へ入れたいんだけれども、この阿難はお釈迦様が在籍中に阿羅漢に成れなかった。後もう一歩というところまではいったんだけど阿羅漢には成れなかったんです。