和尚さんの法話 「後生を認める」
仏教とか、宗教とか、信仰とかこういうことは、あくまでも死後の世界が存在するということが、大前提であるわけです。
そんなことは分かってると皆さんは思われるかも分かりませんが、ところが坊さんの中には、特に仏教学者という坊さんですね。お寺の住職さんで而も大学の教授をしてるというような方々がたくさんありますが、そういう方々は、ほとんど死後の世界を認めないですね。
和尚さんも宗派の仏教科を卒業しましたが、学校では仏教は唯一の無霊魂の宗教だと、他の宗教は皆、死後の世界、霊魂を認めると。
その証拠に、「無我」と説いてるだろうと。それから「空」。空ということは有ということを否定していることなんだと。
そういう状態なんですよね。それはもうとんでもない間違いでですね。
空とか無我とかそういう言葉は確かにお経の中に出てきますけれども、それの判断を間違ってるんですね。無礼な言い方かもしれませんが、ほんとうの意味を分かっていない。
空とか無我とかいうのはほんとうにもう仏教の奥の深いところですよね。それは体験しないと分からない。
書いてるものを読んでるだけでは、こうかな、というところまではいきますけれども、こうだということは自分が体験しないと納得のいくものではない。
他の宗教は兎も角も、仏教という教えは、八万四千の法門があるといいますね。
間口は広いし奥行きは深いし。これも今まで何遍も申しておりますけれども、お釈迦様が樹のひと枝を折って、弟子たちに、お前たちはこの樹に茂っている葉の数と、私が今折ったひと枝の葉の数とどちらが多いと思うかと。
それは世尊、例えになりませんと。樹に残ってる葉の数が多いですと。
これは何を例えたかと言いましたら、仏教の教えというものは、今いうように間口が広くて、奥行きが深くてこれで仏教は終りですというところは無いんですね。
前にも申しましたが、人相とか占いとかそういうことは表には出てきませんけどあるんですよ。
比丘たちよ、私が今日まで説いた法門(仏法)は、例えば今私が折ったひと枝の葉の数だ。
それに対して私が今日までまだ説いていない仏法、未来にまだ説き切れない仏法の数というのは、この樹の枝に残っている葉の数なんだよと、こういう例えがあります。
それくらい仏法は、他の宗教に比較して非常に幅が広くて奥行きが深いんですよ。
それはただ表面の、我々が見たり聴いたり、この五感で以って感覚したり、それもありますけどそれだけではない。それじゃなくて、我々の心の世界というものを広げたものを仏教なんですよ。「仏道を習うは心を習う」その心というのが、皆さんは、感情とか理性とか、怒りとか愚痴とか貪欲とかそういう無形のものであるとしかとらえない。
ところがそうじゃない。心というのは立体性がある。
心に立体性があるということを本人が体験しないと分からない、なるほど心にも形があったのかと。念写の写真、れいこんの写真ですね、これはいい加減なものもありますが。テレビでもたまにやってますが、影の形がたまたま人の形になってるから霊魂の形だと、そんないい加減なものじゃないですね。
実際写ります。写真機を使わずに写るんです。これは和尚さんもやりましたから。
だから写るということは形があるということです。
和尚さんがいつも霊魂を見て、こういう年格好のこんな性格の人と言いますが、それは形があるから言えるんですよね。
霊魂にそういう形があるんです、霊魂というのは心です。
それは体験を持たないと和尚さんがいくらああだこうだと言っても、そうかいな、ああそうかなというところまではいくけれども、実際に物質を見るように自分の目で見ないと感じ取っていただけないですね。
それと同じことで、仏教というのはお釈迦様のお覚りの世界ですよね。
お釈迦様の心の世界を、お釈迦様の体験を広めて説いてるのが分かり易く言えば仏教なんですよ。
だから、お釈迦様のお覚りの境地の分かってる人は分かる。
お釈迦様のように、お釈迦様そっくりにはいかないけど菩薩とか阿羅漢はお釈迦様のお覚りの三分の二以上行ってるんですから、その辺のことをお釈迦様がおっしゃったら、自分の体験と照らし合わせて、あああそこだな、あああそこだなと分かる。
ところが凡夫は分からないですね。
だから本当の仏様の境地は、仏様と仏様でなければ分からないというような言葉があるんですね。
「唯仏与仏」仏の境地は仏様出なければ分からない。と、こういうお言葉があるんです。
「乃能窮尽」(ないのうぐじん)即ち能、窮(きわ)め尽すということですね。
仏様はもう仏様のお覚りという無上菩提といいますね。菩提とは覚りですね。無上ですからこの上ない覚り。ということで、如来様のお覚りは、それ以上無い。
だから無上菩提ということは如来様のお覚りということです。この境地は仏様と仏様でなければ分からない。
仏様の境地ばかりを説いていたら他の人は分かりませんからね、阿羅漢の境地、縁覚の境地、声聞の境地、般若心経は菩薩の境地ですね。観世音大菩薩といって観音様の境地が現れてきますね。ああいうお経は我々には分からない。あのお経は、菩薩の体験の境地です。観音様とかお地蔵様とか、そういう方々が体験している世界です。だから、その世界を体験していない我々が解釈しようとすると、とんでもない間違いをする。こうだろうと思って、それは想像にすぎないですね。
あの般若心経に一番肝心なところは、色即是空ですね。この色というのは、色や形のあるものという意味で物質なんですよ。我々の見えてる物質は全て色。人間でいうとこの肉体。肉体も物質ですね。
そういう物質も勿論色なんだけれども、般若心経で説いてる色は、心の中の色なんです。
例えば霊魂の持ってる姿。そういう形を色。その色が空だといってるんです。眼で見えてる物質が空だと言ってると違うんです。
それをほとんどの人は体験がありませんので、失礼な言い方ですが、この見えてる物質のことが色だとしか考えられないんですね。だから皆さん般若心経の本を見ましたら物質を色だとしか解釈していません。物質だという建て前で以って、色即是空を説明しています。これはもう間違いですね。そんなことでは般若心経ということは分からない。
そういうことで、色即是空ということでも、無我ということでも、偉い先生方が解説してるんですが、失礼ですが体験をお持ちではない。これは和尚さんも先生に習った若い頃はそうかなと思っていたそうですが、今になってみたら先生は大きな間違いをしてきたなと、そうおっしゃっていました。
そのときはまだ学生でしたから本当に分からなくて、先生のおっしゃるとおりと聞いてきたそうです。
が、信仰も頂きまた或る程度体験も積んできたら、あれは違ってたと、とんでもない間違いだと。大学であんなことを教育されたらこれは大変なことだと、今はそう思ってると。
兎に角今いう宗教というものは、死後の世界をまず認める。
その死後の世界というものは、ひとつじゃないんですよね。我々人間の世界と、死んであの世の世界と、ふたつの世界があるというわけですが、大雑把に分けたらふたつですが、例えば地獄とか餓鬼とか修羅とか、或いは天上とか、これは皆あの世です。
そんなことは分かってると皆さんは思われるかも分かりませんが、ところが坊さんの中には、特に仏教学者という坊さんですね。お寺の住職さんで而も大学の教授をしてるというような方々がたくさんありますが、そういう方々は、ほとんど死後の世界を認めないですね。
和尚さんも宗派の仏教科を卒業しましたが、学校では仏教は唯一の無霊魂の宗教だと、他の宗教は皆、死後の世界、霊魂を認めると。
その証拠に、「無我」と説いてるだろうと。それから「空」。空ということは有ということを否定していることなんだと。
そういう状態なんですよね。それはもうとんでもない間違いでですね。
空とか無我とかそういう言葉は確かにお経の中に出てきますけれども、それの判断を間違ってるんですね。無礼な言い方かもしれませんが、ほんとうの意味を分かっていない。
空とか無我とかいうのはほんとうにもう仏教の奥の深いところですよね。それは体験しないと分からない。
書いてるものを読んでるだけでは、こうかな、というところまではいきますけれども、こうだということは自分が体験しないと納得のいくものではない。
他の宗教は兎も角も、仏教という教えは、八万四千の法門があるといいますね。
間口は広いし奥行きは深いし。これも今まで何遍も申しておりますけれども、お釈迦様が樹のひと枝を折って、弟子たちに、お前たちはこの樹に茂っている葉の数と、私が今折ったひと枝の葉の数とどちらが多いと思うかと。
それは世尊、例えになりませんと。樹に残ってる葉の数が多いですと。
これは何を例えたかと言いましたら、仏教の教えというものは、今いうように間口が広くて、奥行きが深くてこれで仏教は終りですというところは無いんですね。
前にも申しましたが、人相とか占いとかそういうことは表には出てきませんけどあるんですよ。
比丘たちよ、私が今日まで説いた法門(仏法)は、例えば今私が折ったひと枝の葉の数だ。
それに対して私が今日までまだ説いていない仏法、未来にまだ説き切れない仏法の数というのは、この樹の枝に残っている葉の数なんだよと、こういう例えがあります。
それくらい仏法は、他の宗教に比較して非常に幅が広くて奥行きが深いんですよ。
それはただ表面の、我々が見たり聴いたり、この五感で以って感覚したり、それもありますけどそれだけではない。それじゃなくて、我々の心の世界というものを広げたものを仏教なんですよ。「仏道を習うは心を習う」その心というのが、皆さんは、感情とか理性とか、怒りとか愚痴とか貪欲とかそういう無形のものであるとしかとらえない。
ところがそうじゃない。心というのは立体性がある。
心に立体性があるということを本人が体験しないと分からない、なるほど心にも形があったのかと。念写の写真、れいこんの写真ですね、これはいい加減なものもありますが。テレビでもたまにやってますが、影の形がたまたま人の形になってるから霊魂の形だと、そんないい加減なものじゃないですね。
実際写ります。写真機を使わずに写るんです。これは和尚さんもやりましたから。
だから写るということは形があるということです。
和尚さんがいつも霊魂を見て、こういう年格好のこんな性格の人と言いますが、それは形があるから言えるんですよね。
霊魂にそういう形があるんです、霊魂というのは心です。
それは体験を持たないと和尚さんがいくらああだこうだと言っても、そうかいな、ああそうかなというところまではいくけれども、実際に物質を見るように自分の目で見ないと感じ取っていただけないですね。
それと同じことで、仏教というのはお釈迦様のお覚りの世界ですよね。
お釈迦様の心の世界を、お釈迦様の体験を広めて説いてるのが分かり易く言えば仏教なんですよ。
だから、お釈迦様のお覚りの境地の分かってる人は分かる。
お釈迦様のように、お釈迦様そっくりにはいかないけど菩薩とか阿羅漢はお釈迦様のお覚りの三分の二以上行ってるんですから、その辺のことをお釈迦様がおっしゃったら、自分の体験と照らし合わせて、あああそこだな、あああそこだなと分かる。
ところが凡夫は分からないですね。
だから本当の仏様の境地は、仏様と仏様でなければ分からないというような言葉があるんですね。
「唯仏与仏」仏の境地は仏様出なければ分からない。と、こういうお言葉があるんです。
「乃能窮尽」(ないのうぐじん)即ち能、窮(きわ)め尽すということですね。
仏様はもう仏様のお覚りという無上菩提といいますね。菩提とは覚りですね。無上ですからこの上ない覚り。ということで、如来様のお覚りは、それ以上無い。
だから無上菩提ということは如来様のお覚りということです。この境地は仏様と仏様でなければ分からない。
仏様の境地ばかりを説いていたら他の人は分かりませんからね、阿羅漢の境地、縁覚の境地、声聞の境地、般若心経は菩薩の境地ですね。観世音大菩薩といって観音様の境地が現れてきますね。ああいうお経は我々には分からない。あのお経は、菩薩の体験の境地です。観音様とかお地蔵様とか、そういう方々が体験している世界です。だから、その世界を体験していない我々が解釈しようとすると、とんでもない間違いをする。こうだろうと思って、それは想像にすぎないですね。
あの般若心経に一番肝心なところは、色即是空ですね。この色というのは、色や形のあるものという意味で物質なんですよ。我々の見えてる物質は全て色。人間でいうとこの肉体。肉体も物質ですね。
そういう物質も勿論色なんだけれども、般若心経で説いてる色は、心の中の色なんです。
例えば霊魂の持ってる姿。そういう形を色。その色が空だといってるんです。眼で見えてる物質が空だと言ってると違うんです。
それをほとんどの人は体験がありませんので、失礼な言い方ですが、この見えてる物質のことが色だとしか考えられないんですね。だから皆さん般若心経の本を見ましたら物質を色だとしか解釈していません。物質だという建て前で以って、色即是空を説明しています。これはもう間違いですね。そんなことでは般若心経ということは分からない。
そういうことで、色即是空ということでも、無我ということでも、偉い先生方が解説してるんですが、失礼ですが体験をお持ちではない。これは和尚さんも先生に習った若い頃はそうかなと思っていたそうですが、今になってみたら先生は大きな間違いをしてきたなと、そうおっしゃっていました。
そのときはまだ学生でしたから本当に分からなくて、先生のおっしゃるとおりと聞いてきたそうです。
が、信仰も頂きまた或る程度体験も積んできたら、あれは違ってたと、とんでもない間違いだと。大学であんなことを教育されたらこれは大変なことだと、今はそう思ってると。
兎に角今いう宗教というものは、死後の世界をまず認める。
その死後の世界というものは、ひとつじゃないんですよね。我々人間の世界と、死んであの世の世界と、ふたつの世界があるというわけですが、大雑把に分けたらふたつですが、例えば地獄とか餓鬼とか修羅とか、或いは天上とか、これは皆あの世です。
作品名:和尚さんの法話 「後生を認める」 作家名:みわ