和尚さんの法話 「仏法聞き難し」
何度も言いましたが、これから五十六億七千万年たったら弥勒菩薩がこの世へ出られますね、そのときに弥勒菩薩が食事のときに使う鉄鉢という鉢を持ってるんですが、そこへ小さなハエのようなものが飛んできて、その鉄鉢のふちへとまるんです。
それをよく見ると人の形をしているんです。
これは弥勒の将来を説法しているんですが
弟子たちが、そこへ妙な物がとまりましたが、それは何でございますか? と聞きましたら、これは過去に釈迦という如来様が居られて、その釈迦の十大弟子のなかに一人、目連という弟子がいて、神通第一である。
これはその目連だと言ったのです。
小さい背丈の人がとまっていたのだけれど、そこで急にわーっと、背丈が伸びて大きくなったのです。
弥勒や弟子たちと同じような背丈にすーっと伸びるというのです。
将来、弥勒のときにこういうことがあると、お釈迦様が言っているのです。
だから過去のことも、未来のことも神通力でわかる。
だから我々凡夫でもですね、多少なりとも信仰をしていって深めていくと、なんとなく胸に浮かんできたりして判るようになるし夢でも知らせてくれるようになったりして見られるようになって、だんだんそういうことが増えてくるのですよ。
これもお話をしたことがあるかもしれませんが、北海道へ行く雪祭りの飛行機が東京湾で墜落をしたんですよね。
そのときに自分も行こうと思って、切符も買って用意をしてあったんですね。
そして雪祭りに行く日を楽しみに待っていたのですが。
ところが、日が近付いてくるにしたがって、だんだんだんだん不安になってきて、如何にも不安を感じるのでもう行くのをやめようと思ったんですね。
しかし、往復の切符まで買ってるのに、これはもったいないなあ、誰かにあげようかと言うと、奥さんが、それはいけませんよ。
用事が出来て行けなくなったというのと違うんだから。
自分が危険を感じて行くのをやめようかと言ってるのに、その切符を人に譲って、もしも何かあったらどうしますか。
そんな切符は燃やしてしまいなさいよ。 と、こう言われて燃やしてしまったのです。
ところが、その飛行機が墜落するんですね。
このお話は、東京の浅草寺が発行している雑誌に載っていたお話で、浅草寺の信者さんの体験談なんです。
これは観音様にお救い戴いたと思いますと書いてまして、その信者さんは、子供の頃からお爺さん、お婆さんに手を引かれてよく観音様にお参りをしました。
今は孫の手を引いてお参りをしています。
と、こう書かれているのです。
子供のころはお爺さん、お婆さんに手を引かれてお参りしていたけれども、そのころはまだ小さいから信仰心というのはなかったけれど、今は本気で信仰をしているわけですわね。
だから私は、これは観音様にお救い戴いたと、書いてるんですね。
これはまさにそのとうりだと思いますね。
こういうふうに、信仰を持っていると、危険を感じたり、思うということがありますね。
そして夢に見るということがあります。
信仰していると、とにかくお守りいただけます。
和尚さんはよく人に相談を持ちかけられることが多くありますが、その中に信仰を持っている人があるわけです。
そして、体験をしている人があるのでお話しますと。
若い娘さんでして、或る朝出勤しようと思ったのですが、急に嫌気が差して出勤するのが嫌やなと思ったのです。
病気でも何でもないし、会社に届けを出す理由がないので、仕方なく出勤することにしたのです。
そして市電に乗ろうとするのですが、一番跡になったらしいのです。
ぎゅうぎゅうした中へ入ろうとしても、元へ戻ってその反動で道路へひっくり返ってしまったのです。
そこへちょうどトラックが走ってきて、頭すれすれに走ってきたけれど、髪の毛をひいただけで無事だったというのです。
これは信仰をしていたから助かったんだと思いますと、そう言ったそうです。
もしも、信仰をしていなかったらトラックにひき殺されていたかもしれなかったと。
ですから髪の毛をひかれたのですから、ほんの間一髪ですよね。
この方も観音様を信仰していた人だったと思いますと、和尚さんのお話です。
運命というのは仏教では因縁なんです。前世から生まれる前から持って来てるわけです。
生まれたときから一生だいたいどういう運命だと決まってる。本人が知らんだけです。
だから運命というのは自分が作ってるんです。自業自得というでしょ先祖の因縁というのは仏教の教えと違います。
仏教では「父不善を為せども子が代わりてこれを受けず」お父さん、お母さんが罪を犯しても子供が代わって罪を受けるということはないんです。
「自業自得」 と言ってやった自分が罪を受ける。 これが仏教の教えです。
運命なんてのは因縁なんですよ。 自分が前世でどういうことをやってきたかという結果なんです。
自分の過去を知りたかったら現在の自分を見よと、現在その結果が現れてるのだから。
「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ」 と、過去に前世で自分がどういうことをやってきたのか知りたかったら、現在の自分を見れば判るということです。
前世で良い行いをしてきたのか、悪い行いをしてきたのか知りたければ現在現れてる。
今度生まれ変わってきたときに どんな運命を辿るか知りたければ、「未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」
と、その原因は現在積んでるんだから、日頃積んでる行いを見よ、自分が日頃良い行いをしてるか、悪い行いか、その結果は未来に出るんだから、今の自分を見れば判ると、いうことです。
「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ」「未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」 と、こういうお経があるんです。
運命の話をしましたが仏縁に逢うというのは並大抵じゃ逢えないのです。
こういうお経もございますので、ご紹介します。
お釈迦様が弟子を連れて托鉢から帰る途中、ひとりの婆さんがしょんぼり道端に座り込んでいました。
お釈迦様は婆さんの前をすーっと通り過ぎて行くと。
お弟子さんは、如何にもみすぼらしいし、しょんぼりしてるので可哀想な婆さんと思って、お釈迦様に救ってもらったらどうだろうと思ったけど、お釈迦様はすーっと、過ぎてしまったので、「世尊よ、ここに哀れな老婆が居りますが、救ってやっていただいたら如何でしょうか。」
すると お釈迦様は、 「この者は縁無き衆生じゃ。」 と言いました。
「縁無き衆生は度し難し、一切衆生は尽くし難し、業決定は転じ難し」 と、この三つは仏といえどもどうすることも出来ないことになっているのです。
これを三種不成といいます。
「縁無き衆生は度し難し」
仏縁が無かったら救いようがないのです。
「世尊よ、仏縁が無ければ世尊のほうから声をかけてあげたら救われるのではないでしょうか」
お釈迦様は黙って戻ってきて、婆さんの前に立ちました。
「婆さんや」 と、声をかけると
婆さんはくるっと向こうを向いてしまうのです。
お釈迦様がくるっと廻ってきて、婆さんの前に立ち、また 「婆さんや」 と声をかけるとまたくるっと向こうを向いてしまうのですね。
お釈迦様と顔さえ合わそうとしない、「これが縁無き衆生なんだ」 と、お釈迦様が言っいました。
作品名:和尚さんの法話 「仏法聞き難し」 作家名:みわ