和尚さんの法話 「仏法聞き難し」
論より証拠と、お釈迦様が声をかけて下さったけどお釈迦様の顔さえ見ようとしなかったのです。
これが縁無き衆生なんだと、いうお経があるんです。
とにかく仏教では縁というのが大事なんですね。
縁が悪いと悪い結果が出てくるし、良い縁に逢おうと思ったら良い原因を積んでおかんといけませんね。
良い行いをしてないと良い縁に出逢わない。 良い結果が来ないというわけですね。
これを 「三世因果」 といいます仏教の教えです。
この世で行なったのはこの世で出るとわかり易いですが、良い事ばっかりする人が良い運命を辿ってるなぁ
悪い事ばっかりする人が悪い運命を辿ってるなぁと、この世での行いがこの世に出るとわかり易いのだが、この世での行いの結果は一部はこの世で出るが、だいたいは前世の行いがこの世に出てきてる。今の行いは来世に出るのが多いです。
だから、あんな良い人がなんで不幸なんだろう、あんな悪い人がなんで、あんなに上手いこといくのだろうと、これは前世の行いの結果が今、来ているということです。
この 「三世因果」 というのは仏教の重要な指導原理の教えです。
「然るを今逢い難くして逢う事を得たり」 その逢い難い仏教に逢うことが出来たということですね。
「徒(いたず)らに明し暮らして止みなんこそ悲しけれ」
せっかく仏教に逢うてるのにこの一生を無駄に過ごしてまた生まれてきて仏様に逢うことは難しい。
今、仏教に逢うてるけど次に逢えるかどうか判らないと言ってるんですね。
種は積んでるからいつかまた逢うことが出来ると思うが、次に逢うかどうか判らないということを法然上人は洩らしてるわけですね。
末法讃という和讃がありますが
如来舎衛国にして 二十五年をへしかども
九億の家の三億は 聞かず知らでぞ止みにける
知るべし見仏聞法の 因縁甚だ逢い難し
まして三途に沈みなば 我が身のはてこそ悲しけれ
忉利の安居九十日 それにも吾等は逢わざりき
提河の滅度は二千年 僅かの未にぞ生まれたる
ー末法讃ー
三途に沈みなばとは地獄、餓鬼、畜生のことでここに落ちたら なかなか出て来れないということです
この忉利の安居九十日というのはインドでは昔、案居(あんご)というのがあって90日間、4月の中頃から7月の中頃まで雨が降るんですね。 日本の梅雨のような雨ですね、それでその期間は托鉢に出られないんです。
それで或る一箇所へ皆が集まってお釈迦様の説法を聞いたり研究会が三ヶ月あるんです。
或るときにお釈迦様が自分の母親は忉利天という世界に生まれてるのですね。
ところがお釈迦様は娑婆では説法をしてるけどお母様のためにはまだ説法をしていなかったのです。
その母のためにも説教せねばならんというので、それを案居のときに選ぶんですね。
普通だったら地上の何処かに集まって信者からお供養をしてもらってするんですけど、そのときにお釈迦様が忉利天へ上がって、神通力でね、肉体は上がりませんよ、禅定に入って魂だけが上がるんですね。
魂だけになって忉利天に上がるんです。
それで90日間忉利天で案居をやったわけです。
それにも吾等は逢わざりき提河の滅度は二千年。僅かの未にぞ生まれたる。
そのときにも説法を聴いてない。
お釈迦様が亡くなって二千年たった頃に書いた和讃です。
阿弥陀様の本願に逢うた嬉しさと、いうことです。 と、いうことで仏縁はなかなか逢えないんですね。
逢えた者はあたりまえのように思うのですが、なかなか仏縁には逢えないのです。
せっかく我々は逢い難き仏縁に逢ったんですから、仏縁を大事にしてこの仏道を歩んで行くということにしたいものだと思うわけです。
了
作品名:和尚さんの法話 「仏法聞き難し」 作家名:みわ