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和尚さんの法話 「運命」

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そしたら、おしゃかさんは、本人が言うているようにこれは決定の業(けつじょうのごう)だとおっしゃいました。

目連は前世で何をしましたんでしょうか。
目連の、ずーっと過去の凡夫の時代に、結婚をして夫婦仲も良かった。
それでお父さんはもう居なかった。
それでお母さんが若夫婦を嫉妬するんですね。
その嫁さんがあることないことを余計に言うんですね、主人の目連に。
それで目連は、自分の母親に、この糞ババア殺してやろうかと言うたんです。
その瞬間に殺意も持ったかもしれないですね。

仏教には、五逆罪というのがあるんですよね、この罪を犯すとちょっとやそっとでは救われないといいます。
父を殺す。
母を殺す。
阿羅漢を殺す。
仏さんの身体に傷を付ける。
仏さんは殺そうと思うても、どうしても殺せない、大勢の仏さんが守ってるしね。
ところが場合によっては怪我をさせて出血すると。
それから教団の破壊。この五つの罪を犯した者は、救われない。

極楽へ往生の条件にも入ってますね、五逆罪と、正法を誹謗する者は除くと。
この場合は目連は親を殺したんじゃないんですよね、ですが、瞬間に殺意を抱いて、この糞ババア殺してやろうかと言うた。
心で殺意を抱いて、言葉でそれを口に出して言うたんです。
その罪が結果として出てきてるわけです。怖いですね。
これ以来、目連は、死ぬときはいつも殺されて死ぬんですね。
今日まで五百回。
五百回も、今まで生まれてきては殺されて死に、また生まれてきては殺されると、それを今日まで五百回繰り返してきてるんです。
そして、今阿羅漢になって、過去において母を罵った罪が消えたと、これが最後だとお釈迦さんがおっしゃったんです。

そういうことなんですね、我々だったら何でここで殺されんならんのかということは判りませんわね、前世になにをしてきたのか。
お釈迦さんとか、阿羅漢さんだったら自分のことも人のことも前世で、過去にこういうことをしてあったから、こうなるんだと判る。
目連も、これは決定の業でこうなったんだと判るけど、他の弟子は判らないんですね、何の決定の業なのか。
それでお釈迦さんに聞いたらこうだったと、それがお経に載ってるんです。

だから、我々は知らんけれども、今が不幸だったら前世が悪かったし、今が幸せだったら前世が良かったんだということです。
だから良いことをしたり、悪いことをしたりして一生を送りますからね。
一生悪いこと尽くしというのも珍しい話ですから、一生良いこと尽くしというのも珍しい話ですし、平均して良かったか悪かったかですよね。
死ぬまえに自分の一生が幸せだったか不幸だったか思案してみたらわかりますね。
これからまだ死ぬまでに何があるか判らない、どんな過去があるか判らないから、どんな災難に遭うやら、どんな良いことに出遭うのか、ここに仏さんがいらっしゃったら相談が出来ますが、我々は分かりませんね。
そういうことなんです、それが因縁なんです。

お釈迦さんにもそういうことがありましたでしょ。
仏さんともあろうお方が、なんで馬の餌を食べななりませんのやと。
これも外道が釈迦教団を破壊しようとして、国王に釈迦教団に供養をしてはならんという法を作るんですね、そんなんだからお釈迦さんが一同を連れて行って、説教を聴いてくれるけど、誰も供養をしてくれないんです。
供養したら自分の首が飛ぶから。


そして困っていたらある人が馬の餌しか持っていませんと、仏様に馬の餌なんかもったいない、世尊はどうおっしゃるか聞いてみるといって、世尊はああ、それでよろしいと、いうのでその馬の餌を供養したという話です。

それでお釈迦さんはなんで、馬の餌を食べんならんかというと、前世でお釈迦さんがまだ凡夫の時代に、或る他の信仰をしていて、それで或る仏さんが居られてその弟子が托鉢から帰ってくるときに立派な家があって、弟子が先回りしてお供養をもらってくるんですね、それでこれは私がもらうはずだったのにと、おまえたちは馬の餌でたくさんだと言うたんですね。
その宗教家というのが私なんだと、それで今、馬の餌を食べんならんのやと、いうことです。
口の業ですね。
おまえたちは馬の餌でたくさんやと口で言うた業なんですね。
仏さんに成ってでも、まだ業が残ってたんですね。
三里百劫という時間をかけないと仏に成れないというほど時間がかかるのに、まだ業が残ってたんですね。

そのときに連れてた弟子がそのときに馬の餌を食べずにすんだんですが、それが舎利弗と目連。
なんで舎利弗と目連は馬の餌を食べずにすんだかというと、過去に或る宗教家の弟子だった。
その二人の弟子が、それはお師匠さんあんまりやと、お師匠さんを嗜めた二人の弟子というのが舎利弗と目連やということです。
お師匠さんというのは間違ってたらいけませんわね、正してあげないとね。
その功徳によって、ここで馬の餌を食べずにすむんだというお経がありますね。
ここで馬の餌を食べんならんというのは、お釈迦さんの運が悪いからなんですね。
食べずにすんだ舎利弗、目連は運が良いんですよね。
これは前世の業ですね。

我々は前世のことは分かりませんけれど、然しながら善因善果、悪因悪果なんだから、良いことがあったら、ああ、前世が良かったんだな、悪いことがあったら、ああ、前世が悪かったんだなと、思えばいいわけですね。
仏教は、この世の運命より、あの世の運命が大事なんで、この世の行いによって、あの世へ行ったらどんな目にあうかと、あの世へ行って苦しむのも楽になるのも、これもあの世の運ですから、その運は自分が積んでいくんですから、毎日毎日ね。

お経の中に、そういう戒めのお経がたくさんあるんですが、
「心常に悪を思い、口常に悪を言い、身常に悪を行じて、嘗て一善も無し」 
と、こういう人もあるということです。
お経に書いてあることも信じない、信仰をして一所懸命に努力をすると救われる、そういうことも信じない。

「死して後、真如を変わりて更に生じることを信じず」
ここで言う真如とは、霊魂のことで、死んでから生まれ変わるということも信じないということですね。

「善を為して楽を得、悪を為して苦を得ることを信ぜず、格の如き衆生、愚痴蒙昧にして(愚かで正しい判断が出来ない)、生の従来するところの(自分は前世は何処から来たんだろうか、地獄から来たんだろうか、餓鬼から来たんだろうか、或いは天上界から来たんだろうか、良きにつけ悪しきにつけ前世のことは知らない)
そして死んだら地獄へ行くのか、餓鬼へ行くのか、天上界へ行くのか、これから先のことも知らない、未来のことも知らない。
そして一生の間に欲望ばかり抱いて、そして長生きだけをしたがる。
楽をして長生きしたいと、そういういいことばっかりを言うけれども、然しながら長生きしてたところで死ぬ。
百年か、百二十年か知らんが、然しながら死ぬんです。
そういう人に気が付くように言うて諭すんだけれども、聞き入れない。
善いことをしたら善い世界へ行き、悪いことをしたら悪いところへ行くと、いうことを教え諭すけれども、それも信じないんですね。
作品名:和尚さんの法話 「運命」 作家名:みわ