和尚さんの法話 「運命」
それはもう運命で決まってることだから何とも出来ないけどれども、出来るというたら、善いことをして悪いことをするなと。
こういうよりしょうがない、とこういうわけです。
善いことをして悪いことをしないで、兎に角殺生はするなと。
生き物を殺さないようにせよ、死にかかってる者でも助けよ。
陰徳を積みなさいと。
それから信仰をしなさい。
この人は易者ですよ。信仰をしなさいと言うたんですね。
あなたが神仏を信じるかどうかは判りませんが、兎に角、助かりたいと思うならこうするしかしょうがないんだと言うのです。
それで言われたことを一応、守ったわけです。
兎に角、出来る範囲で善いことをして悪いことをしないし、信仰もして。
そうすると毎日、毎日、覚えてたり忘れたり、ずっと先のことだから。
そしてその歳になって、ある酒場で切り合いになるんです。
酒のうえの諍いを起こして、向こうは複数名いるわけです。
そして刀の柄に手をかけたそのときに、思い出した。今年だったと。
然しながらここで死ぬのかと、言われた歳は今年やけど、日にちまでは聞いてないが、意地で刀に手をかけただけのことですから、おそらくはここで意地を張ってたらここで命を落とすんだろうなと思った。
ところが武士は恥を恐れて恥をかくくらいなら死ぬという時代の武士道の時代でしょ、だから武士が背を見せると、後ろから切られるというのはもの凄く恥なんでしょ。
武士は額の傷は、男の額傷というのは名誉なんですね、前から切られたと。
ところが背中を切られるというのはもの凄く恥なんですね。
逃げる後ろから切られるんですから。
然しながら意地を張っていたら命にかかわる。
こんなことで死にたくない。
だから逃げるより他しょうがない。
それで油断を見透かして逃げにかかったんです。
ところが後ろから切られるんです。
そして大怪我をしたけれども、助かったんです。
なるほど運命というのはあるんだなというのを悟って易者になったんですね。
その運命というのを前もって知っていたら気をつけますよね。
自分は運命を信じていなかったから前に大怪我をしたけれど、言われたのにね、幾つのときに剣難の相があると。
それを信じてなかったから怪我をした。
だから世の中に、その運命というのを信じないがために、しなくてもいい怪我をすると。
切られなくてもいいのに切られる。
死ななくてもいいのに死ぬ、命を落とさなくてもいいのに命を落とすということは随分ある。
運命を信じなかったために大怪我をしたけれども、今度は死ぬぞと言われたので努力をしていましたら兎に角、命は奇跡的に助かった。だから運命を信じたからなんだと。
防ぐ方法を聞いたからまあまあやってみたら、それで助かったんですわね。
だから自分は、生きていてどうということはないんだから易者になって、運命ということを教えてやって、兎に角信仰をしなさいと、その易者の書物に書いてあるんです。
そして殺生をするなと。
自分が言われたことを全部書いてある。
そして坊さんと神官の運命は判断がしにくい、それは信仰を持っているからだと。
運命を超越出来るからなんだと。
だから信仰は大事だと書いてあるんです。
その人は宗教家じゃありませんね、運命を観る易者ですから。
だから運命は決まってあるということの、この人の体験談です。
ですから前世でどんな悪い運命を作ってきたか分からんけど陰徳を積み、善いことを重ねていくと運命は良くなる。
そして質素倹約、贅沢をすると得を減らす。
出し渋るというのはいけませんのですよ、人のために、社会のためにするのはいいんですけれども、自分のために贅沢をする。これは不徳になるんです。
そういうのを戒めてるんですね。
運命というのは、その人の話を聞いて判ると思いますが自分が作ってるんでしょ。
自分の運命は自分が作る。
死ぬような運命でも、自分が自分を努力によって助けてるんですね。
神仏によって助けてもらうような行動をとったのは自分ですわね。
だから結局は、自分が、自分の運命を良くしたり悪くしたりしてるということを申したいわけなんです。
それを仏教の言葉でいうと因縁というのです。
前世の自分の因縁です。
お経の中に、目連が、目連というのはお釈迦様のお弟子さんですよね。
お釈迦さんの最高の弟子ですね、何万という中から千二百五十人が選ばれたんですよね。
これは皆、阿羅漢なんですね、その中から十大弟子を選んで、その中から二人だけを選んだら、舎利弗、目連の二人になるんですね。
その目連が、暗殺されるんです。
天命を真っ当出来なくて殺されるんです。
それは何で殺されたかというお経があるんです。
徳の高い阿羅漢が何で暗殺されるのか。
お釈迦さんが悟りを開いて仏教がだんだんと広まって大勢になってきたそのときに、仏教は新興宗教で、それより前から宗教はたくさんあって、その他の宗教から迫害を受けるんです。
仏教というのは邪魔やと、釈迦というやつは邪魔やと、我々の信者を皆とってしまうと、いうんですね。
お釈迦さんは徳が高いから他の宗教の信者さんも皆、仏教へ入ってくるんですね。
そうすると、他の宗教は生活に困るわけです。仕事をしてないから、信者によって支えられてるんですからね。
昔は托鉢によって生活をしてたから、信者が減ると困るわけです。
なんとかして釈迦の教団を潰そうと、あの手この手で迫害をするわけです。
そのひとつの方法で、目連が殺されたんです。
待ち伏せされて、棒や石で叩き殺されたんです。
即死じゃなくて、ちょっと時間をおいて死ぬんですけどね。
息も絶え絶えの目連を見て、他の宗教家は弟子たちに、目連が復習をしに帰ってくるから危ないからこっちへ来いというて、自分が殺した相手を危険だからといって、安全な方へ逃がしたんですね。
そこへ、仏教の仲間が、目連が遅いので来てみたら、そんなめにあっていた、ということでお釈迦さんのところへ連れて行ったんです。
目連のお連れさんが、おまえはお釈迦さんの最高の弟子で、しかも神通第一ではないか。
目連は神通第一といわれたんですね、皆それぞれに特技があって、舎利弗は智慧第一、何々はと、神通があったんですね。
目連は神通第一と言われているおまえが、こんなことは判らなかったのかと言われるわけです。
今なら闇の中から鉄砲でも撃たれるというようなこともあるけれども、石や棒で叩き殺されたんですから。
そんなことが予測できなかったのかというと。
これは決定の業で、前世の決定(けつじょう)の業。
業決定は転じ難し。つまり決定した運命はどうにもならんということです。
運命でも、大難は小難、小難は無難、となる運命もありけれども、どうにもならん運命もある。
決定(けってい)してるからこれはどうしようもない。
目連はそのとき、神通の、神の字も思い出せなんだというのです。
自分は神通力があるんだと、そういうことを思いも起こさなかったというんです。
だから神通力を発揮しようがない。
そしてお釈迦さんの前へ連れて行って、目連は何でこんな死に様をするんですかとお聞きするんですね。
作品名:和尚さんの法話 「運命」 作家名:みわ