和尚さんの法話 「霊夢と信仰」
自分の考えはこれでよかったんだという信念を持ってきたところが、その人がそういうことを言うものだから初めて疑問が起こったんですね。
はたしてこれで良いのだろうか。
悪いのだろうかと。
これは今までは自分では善いと思っていたけれども、然しながら分からない。
これは熊野様にお伺いしなければ分からない。と、思ったんですね。
この熊野の神様は阿弥陀様の化身ですね。
本地垂迹説というのがございますね。
日本の神さんは元を辿れば、何処何所の神さんは観音様の化身。
何処何所の神さんはお地蔵様の化身と。
それを辿って行けば、熊野権現は阿弥陀如来様であるということなんです。
だから熊野権現は即、阿弥陀如来様だから、この阿弥陀如来様にお伺いいたしましょうと。
念仏を奨める趣旨がこれで良かったのか、悪かったのか。
ということを神さんの熊野権現にお告げを戴こうと思ったわけです。
そして、うとうとと眠ったときに、殿の扉が開いて、白髪の山伏、その後ろに三百人余りの山伏、護憲族が、現れた。
そのとき、これが権現様だと思った。
白髪の山伏が一遍の前に来て、貴方の念仏は間違っていますよと、言うのです。
札を渡して極楽往生が出来るといえば、私が極楽へ導くんだという自信を持って配っていたことになる。
阿弥陀様が菩薩から如来様になってからは、今から十劫たっている。
四十八願が悉く成就するという誓願をお立てになって、極楽という浄土をお作りになって十劫になるわけです。
その四十八願のなかの、第十八番目の誓願であるところの阿弥陀様の名号を称えるものは極楽へ往生するとある。
それが我々の拠所なんですね。
だから一切衆生は、南無阿弥陀仏と称えることによって極楽往生できるということが決定してるんです。
おまえが勧めて往生するんじゃないんだと、こういうお告げですね。
人がどうだこうだと言おうとも、兎に角その札を配っていきなさいと、こういうことです。
そして何処からともなく集まってきた百人ばかりの人々が、そのお札をもらって、何処へとも去って行った。
この夢で、初めて一遍上人は他力の真髄を得た。信心を決定したんです。
だから今までは本当の信心じゃなかったわけですね。
悟りといえば悟ったと、こういうことですね。
他力ですから本当の信心を戴いたということです。
一遍上人の時宗は、熊野権現の夢の中のお告げによって戴いた法門だということです。
それまでに十二年間、勉強をしてきた。
そして信念によって、私が救ってやろうといって、お札を配った。
それは自力であったといってますね。
自分が救ってやるんだという自我が強すぎたんですね。
熊野権現さんがおっしゃったには、「心品のさばくりあるべからず」と。
あーでもない、こうでもないと言って分別するなという意味ですね。
一遍上人はそういう分別が強かったんでしょうね。
我々の分別というのは、悪いのは勿論いかんし、よかったって、それは凡夫の迷いであって、悟りの心じゃないんだ、ということなんですね。
極楽往生の条件にはならない。
分別は極楽往生には何の役にも立たないんだということです。
南無阿弥陀仏が往生すると、そう告げられたので、自力の修行を捨てましたと。
ですので、そう熊野権現に告げられたので、心の迷いがすかーっと晴れた。
もうそれからは、捨て聖といわれるくらいになるんですね。
何もかも捨てきってしまう。
禅宗的な考えかたですね。放下着という言葉がありますね。
和歌山の由良というところに、法燈国師という方がいて、或るときそこへ一遍上人は尋ねていったんじゃないかと思いますね。
記録の中にも一遍上人は法燈国師から印可といって印をもらってますね。
ですから一遍上人の境地というのはひじょうにその禅宗のほうから高くかわれるんですね。
二、
これは法然上人の夢の話になります。
ひとつの大きな山がある。
その山は南北の長い長い峰の山があって、前が西になるんですね、その山の中腹に法然上人は立っている、そういう格好ですね。
そしてその山の下には大きな川が流れていて、その川は北から南へと流れている。
山のふもとの川も大きいし河原もひじょうに広い。
その河原には、松か檜か分からないが、いっぱい生えている。
山の中腹に登って、遥かに西方を見れば、その空には紫雲が見える。
その紫雲は上人のところに近付いてきて、雲の中から光が放たれていて、中を見れば鸚鵡や白鵠孔雀、迦陵頻伽など、聞いたことも見たこともないようないろんな綺麗な鳥が見える。
この情景は阿弥陀経にありますね。
この鳥は阿弥陀様の神通力で表した鳥ですね。
この鳥は罪業が深くて鳥に生まれたんじゃないんだぞと、お釈迦様が戒めていますね。これは阿弥陀様が神通力で表した鳥なんだと。
その鳥が紫雲から出てきて河原に降りて遊び、また紫雲に入り、北の方角に隠れてしまう。
これは極楽に往生した人があの紫雲に居るんじゃないかと思うんですね。
するとまた上人の前にその紫雲が来た。
天を覆うような大きな雲だといいます。
そしてその紫雲の中から一人の坊さんが現れて、そして法然上人の前へ来た。
その衣は、腰より下は金色で、腰より上は墨染めなり。
上人は、合掌して貴方様は何方様でございますかと訊ねますと、我は善導なりと応える。
中国の念仏の体制した人で、善導大師ですね。
こういう夢のお告げがあったんですが、それまでは、極楽往生は出来るというけれども、出来るんだろうかという疑問がちらっとあったんでしょうね。
だから善導大師が夢に出てきて、現に私は極楽へ往生できてますよと、だから貴方の信仰はそれで宜しいのですよと言ってくれたわけですね。
必ず極楽往生が出来ますよと、証明のために現れたんですね。
そのときに腰から下が金色で腰から上が墨染めの衣を着ていると、夢で見たとうりのお姿を浄土宗のお仏壇の形になってるわけなんですね。
法然上人は、ああこれでよかったんだ、これで間違いないんだと、善導大師の言うとうりに守ってるはずなんです。
善導大師にはそういう論理がありますから、それを勉強して、善導大師はここのところをこういうふうにおっしゃってると、一にも善導、ニにも善導、善導大師一編等だったんですね。
だから善導大師が極楽へ往生できてるということを夢で教えてくれたんですね。
和尚さんのお祖父さんも、もう死ぬと思ったときにお念仏を称えながら倒れた。
お念仏を称えてたら必ず阿弥陀様がお迎えに来て下さるはずなんだ。
極楽へ往生できると、お経に説いてあるんだから。
だけども、一所懸命にお念仏を称えているが、阿弥陀様は一向に現れない。
じゃあ、自分の信心は足らんのだろうか、自分は往生が出来ないんだろうか。
尚も、一心不乱になってお念仏を称えた。
そこへ墨染めの衣を着た坊さんが一人現れた。
あなたは必ず極楽へ往生できます。
だが、まだ寿命が残ってる。
あなたが本当に亡くなるときに阿弥陀様がお迎えに来て下さいます。
そのときには私も阿弥陀様のお供をしてまいります。
あなたはいったい何方でしょうか。
私は時宗の七代目です。
と、いうことで、そういうことがあるんですよね。
作品名:和尚さんの法話 「霊夢と信仰」 作家名:みわ