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和尚さんの法話 「霊夢と信仰」

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信仰をしていますと、必ず霊夢ということがございます。
ですから霊夢と信仰というのは、もう切り離せない密接な関係になっているんですね。
夢の状態を見ていますと、自分の信仰の境地といいますか状態がある程度分かるわけです。

今では一般的には夢というと、夢のような話というふうに軽くあしらってしまいますが、昔は、日常的な判断よりも夢、霊夢ですね、ひじょうに大事にしたようです。

そしてその夢を信じる人が一般に多かったんですね。

そして何か起こったときに神仏の霊感を仰ぐ。お告げを仰ぐ。

それが夢という形になってお告げになるということが、しばしばあったのですね。

昔の話に、悪い坊さんがあって、天皇の寵愛を受けてどんどん皇室へ入り込んでいってですね。
結局は自分が天皇になるというような野心を起こすんですね。
それも神様のお告げであると言うてね。
宇佐の八幡というから九州ですかね。
その宇佐の八幡の宮司さんと、その悪い坊さんが結託して、その坊さんを天皇の位にしたら国が発展するというようなことなんですね。
それが神様のお告げであると、こういうことを言ってきたんですね。
神様のおっしゃることだというので、もうちょっとで天皇になるところでしたのでしょう。

ところが、その臣下の中に和気清麻呂という人がおって、その和気清麻呂がひじょうに清廉潔白な人でした。
日本の国のその臣下であると、たとえそれが坊さんといえども臣下であるものが晩世一国の皇統を継ぐということが、そんなことがあるはずがないと。
そんなことが神様がお告げをなさるはずが無い。

と、いうことでいろいろ問題になってきて、そして結局、それなら私が、和気清麻呂自身が宇佐の八幡宮様へ行って、お告げを戴いてきますということになったんです。
本当にそういうお告げをしましたのか、違ったのかこれは重大な問題であるからといって、そして奈良から九州まで行って、お告げを仰ぐわけです。

それで神様のお告げが、それはまかりならんというお告げであったわけです。
それで帰ってきて、坊さんの野望は阻止されると、こういうことですね。

ですからお告げがありましたというても、証明が難しいですわね。実際を考えましたらね。
しかし、奈良から九州まで行って、夢のお告げを受けるというようなことは、実際にあっただろうと思うのです。
本当のお告げはあったであろうと思うのです。
日にちをかけて努力をして、そして神様のお告げを仰ぐ。
和気清麻呂という人は清廉潔白な人ですから、わけのわからない人ではないのだから、その人が日にちをかけてお告げを受けるということは、あったであろうと思うのです。
ですから和気清麻呂の、神様のお告げはこうでしたというのは本当だと思いますね。

しかし、そういうお告げを利用した人はたくさんあったに違いないと思いますね。
例えば、戦争でも大将が、八幡様がこの戦争が勝つという夢のお告げがあったぞと。
皆に言えと、そういうふうにけし掛ける。
実際には夢のお告げはないけれども、利用するわけですね。
お告げがあったぞ、勝つと言ったぞと、皆その時代の人は信じてるわけです。
そういうふうに利用した人もあったに違いないと思いますね。
それほど夢というものは、大事にされたということです。


天照大神が、いろいろお告げをなさる。
天照大神という方は、お巫女さんだったと思うんですね。
神様が乗り移って言うんですね。
ですから神様が言うので、そのうち巫女さんが神様と、こうなってくるわけですね。
だからお告げを言うてきたというんだから、天照大神に何方か神様が乗り移ってたんだと思うんです。
時代が詳しく分かりませんが、卑弥呼が天照大神じゃないのかなと、思うんです。
なにかの書物に卑弥呼が神のお告げを云々と書いてますよね。
昔のことですから時代の改竄とか何とかありますからね、詳しく時代がはっきりとしませんからね。
結局、天照大神や卑弥呼の言うたことをすれば国が栄えるからと、いうようなお告げどうりにしていったんだろうと思うんです。
ですからお告げを受けるような人じゃなければ政治の制裁を出来ないと思うんです。
お釈迦様も国王という位を捨ててしまったけれども、如来様になられたのですから神通力を持ってますわね。
何もかも知ってるわけです。
そういう方が政治をとっていったら最も完全な政治をとれると思うんです。
そういうことが多かれ少なかれ昔はあったんですね。
自分にはそういう能力がなくても、誰かそういう人がおって、お伺いするといいわけですね。

昔はそういうふうに宗教と政治が一致して行ってたんですね。
今は宗教と政治は分離しないといけないですがね。
それに今はそういう能力の人も居りませんから、今はそれでいいですが、昔はそういう時代もあったわけです。
神様が政治をとっていた。
それにはその根拠があるからですね。

それには一般の人でも、神仏にどうぞ夢でお告げを頂たく思いますとお願いをする。
夢はあの世と通ずる状態なんですね、雑念が無くなってしまって、精神統一の状態になりますからね。
ですので、あちらさんから通信が送りやすいと、いうような状況になるんですね。

それに眠らなくても阿羅漢というようになってきたら、起きていながら精神統一が出来て、あの世とこの世と自由自在に交信が出来る。
そういう神秘的な世界があるんです。
それがだんだんと、時代と共に衰えてきてるんですね。
今日はそういう昔の人々が、特に坊さん方が、何か事が起こったときに神仏のお告げを戴く。
自分はこう思うてるが、神仏はどう思われるだろうかと、いうようなことを直接、積極的にお告げを戴きたいというて祈ったんです。


1、
一遍上人が高野山へお参りをした後に熊野へ参詣をした。
其の時に、南無阿弥陀仏と書いたお札をたくさん持っていって、配ったんだそうです。
一念の心を起こして南無阿弥陀仏と称えてこの功徳を受けなさい。
南無阿弥陀仏と称えたら必ず極楽往生ができます。と言ってお札をわたしたんですね。
そうしながら熊野まで行ったんです。
そこで一人の僧に出会うんです。
その坊さんは律宗の僧だったんです。
坊さんは、貴方は一念の想を起こせというけど、私は起こりません。 というのです。

一念の想を起こさないのに、この札を受けたら神仏に嘘をついたことになる。
貴方は仏教を信じる心は無いんですか。どうして受けられないのですかと、一遍上人が問うと。
お経はありがたい、だから私も坊さんになっています。
然しながら、信心の心を起こせというけれども、私起こらないんです。
それはどうしようもありません。 と、こういうんですね。
だから札を受けて信心の心を起こせというけど、私は起こらないと、こういう問答なんですね。
坊さんが二人で問答をしているものだから、そこへ信仰心のある人々が集まってきました。

貴方がこの札を受けなければ、皆受けないであろう。
だから信心、起こらなくてもこの札を受けてもらいたい。
坊さんがこの札を受けるのを見て、皆札を受けたのである。
然しながら、今まではこの札を受けることを誰も断った人はいなかった。