眠り姫
それは,あまりにも自然なしぐさだった。
……毎晩,人知れず,ここで姫は眠っておられた……?
彼女にとってはごく慣れ親しんだ場所,
いや,それ以上に居心地の良い場所であるかのようだ。
落ち着いたその表情はかえって不自然なはずなのに……。
どうして今まで気付かなかったのか。
ボクはバカだった。
彼女は,夜な夜な城を抜け出しては,
ここでこうして眠っていたのだ……。
* * * * * * * * * * *
護衛として十分の役目を果たせていなかったボクを,
彼女はどう思っていたのだろうか。
姫は,横たわったまま目を開けて,ボクをじっと見つめた。
『ごめんなさい,少し喉が渇いたわ。
お水が欲しいの。取ってきてくれるかしら?』
こんな森の奥に,大事な姫君を独り残して……と少し戸惑った。
しかしその不安はすぐに払拭してしまった。
彼女にとって,ここはプライベートな寝室ほど慣れた場所なのだから。
彼女のお願いに,頷かざるを得なかった。
きっと大丈夫だろう。
いつものことなんだから。
大丈夫。
いつものこと……。
* * * * * * * * * * * *
水を持って戻ってきたとき,
彼女はやはり穏やかな表情で目を瞑っていた。
きっと待っている最中に眠ってしまったのだろう。
少し微笑ましく思いながら,ボクは声をかけた。
「姫,お水でございます」
……目を開かない。
「姫,姫!」
失礼とは思いながらも,今度は体を揺さぶりながら声を張り上げた。
彼女はかすかに瞳を開き,まどろんだ声で答えた。
『ごめんなさい,眠ってしまっていたのね……』
* * * * * * * * * * * * *
目を覚ました彼女の言葉にひと安心したボクは,
持ってきた水を彼女に渡した。
姫は上半身を起こし,その水を飲み干した。
カタン……
彼女の胸元から,例の薬瓶が落ちた。
「姫,大切なお薬が……」
そういって手にしたその瓶は ――
空になっていた。
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何が起きたのかわからなかった。
ボクが手に取ったその空き瓶を見つめていると,
彼女は俊敏な動きでボクの手から瓶を奪い取り,
ものすごい剣幕と形相でボクを睨み付けたのだ。
それまでみたことのないその姿と表情には,
驚きを隠すことはできなかった。
『……ご,ごめんなさい。少し気が立っていて……。あ,ねぇ,お水,ありがとう』
彼女を凝視するしかできなかったボクを,
またいつもの微笑で安心させてくれた。
―― それを超える量を垂らしてはなりませぬぞ ――
だが,”魔女”の言葉が頭を巡っていた。
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『ねぇ,わたしを飾り付けて?
せっかく薔薇を持ってきたんだもの, わたしを飾り付けてくれるでしょう?』
ふと,彼女が優しく微笑んで言った。
ボクは,その言葉に少しの違和感を感じながら,
彼女の周囲に薔薇の花を敷き詰めていった。
この森に入ってくる時点では,小瓶は薬で満たされていた。
ではその中身は今,どこへ……?
『足りなかったみたいね』
確かに,棺の中の彼女を薔薇で包むには,
十分の束ではなかった。
『でも大丈夫,ほら,そこに薔薇が咲いているわ』
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その言葉に促され,姫の目線をたどった。
しかし,どこにも薔薇は咲いていなかった。
「姫?薔薇の花はもうありませぬが……」
『何を言っているの? ほら,そこにたくさん咲いているじゃない?』
もう一度,辺りをよく見回し,
彼女の目線をたどってみる。
だがやはり,どこにも薔薇は咲いていなかった。
『ほらぁ,たくさん咲いて……イル』
彼女が見ているのは,
少し色味が変わった葉っぱのことだった。
一枚だけちぎり,姫のもとに持ち寄る。
『キレイ……』
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寝ぼけているのだろうか ―― いや,
そうではないことをボクはすでに悟っていた。
そしてその葉っぱを棺の中に敷き詰めていった。
『ありがとう……すごく……キレイ』
姫はボクにいつもの笑顔を返そうとしていた。
しばしの沈黙。
その沈黙を最初に破ったのは,姫のほうだった。
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『わたしは,この森の伝説になるの。
きっと王子様が迎えに来てくれるわ。ワタシノ オウジサマガ……』
彼女の瞳はまどろんだままとはいえ,輝きを呈していた。
しかしその声は,今にも消え入りそうな,か細いものだった。
ボクは,小瓶の中身の薬が,
彼女の体内に消えたのだという事実を確信していた。
無礼とは思いながらも,彼女の手を取る。
それは,その手は,雪の季節ではないかと思うほどに
ひんやりと冷たかった。
『そう……この森で眠って……オウジサマにめぐり逢うの……
そして接吻で目を覚まして……ワタシハ シアワセニ ナレルノ……』
虚ろになってゆく姫の瞳。
不安を覚え,彼女を揺さぶった。
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「姫!姫!」
大きな声で呼び続けた。
しかし,彼女はぼんやりとした表情のままだった。
『……ンネ』
小さな声で呟く姫。
何を言っているのか聞き取れなかったので,
彼女の吐息を感じられるほどに耳を近付けた。
姫は力を振り絞って語りかけてくれた。
『ゴメンネ……あなたを……巻き込んでしまった……。
ワタシのことなんて……忘れて……ね……、レヴィノス……』
ボクは耳を疑った ――。
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姫が,まさか,ボクの名前を知っていたなんて。
そのボクの名を覚えていて,
そして呼びかけてくれるなんて……。
ボクは驚愕していた。
薄れていく彼女の意識とともに,
ボクの中での彼女への恋心は,
確かなものになっていった。
「忘れろだなんて……そんなこと言わないでください!
わたくしは……姫……あなたのことを――」
彼女の手が,ボクの手から滑り落ちた。
そして空き瓶が,小さな音を立てて彼女の手から落ちた。
もうかすかな息しかしていない彼女に,小さな声でささやいた。
「あなたを……愛しています――」
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ボクの目から涙がこぼれる。
あぁ,この涙が”秘薬”ならば良かったのに。
彼女の両の手を胸の前で組ませ,
その上にボクは自分の手を乗せた。
ボクの言葉は彼女に届いたのだろうか。
いや,届いてはいない。
届いてはいけないのだ。