和尚さんの法話 「因縁と運命」
それから、和尚さんを訪ねた或るお客さんが、家業を持っていたけれども、倒産したそうです。
倒産しましたが、反物の白生地を預かって、反物を染めて、次にそれをどうして、こうしてと、店が幾つか関連してるんですね。
そういうお商売で、こっちの店が倒産したので、それを被って家が倒産したんだと。
ところが、向こうが倒産するはずがないと、いうのですね。
あれだけ儲けているのに、倒産するはずがないと。あれは計画倒産に違いないというのですね。
ところがその証拠がない。
和尚さんを訪ねてきたのが、その倒産した奥さんと、お嫁にいってる娘さんと二人で来たわけです。家の主人が倒産したんだと。
あれは計画倒産に違いないと。
そういう話をいろいろ聞いていると、その奥さんの後ろに武士の姿がいっぱい見えてきたそうです。
その一番奥の、一段高い所に、殿様が脇息にもたれている姿が見えた。
ちょうど時代劇の将軍さんが一段高い所でそういう格好をしていますね。
そして両側に家臣が大勢並んで座っているのです。
座って成らんでいるのですが、手前の列の向こうから二人目の侍が、畳に頭を擦りつけて、その人だけが頭を下げているのです。
他の人は皆黙って座っているのです。
ところが、頭を下げている武士が、時々頭を少し上げて、向かい側の一人の武士の顔を見て、そしてまた頭を下げるのです。
また頭を少し上げては、向かいの武士を見る。
なにかを訴えているようなんですね。
その姿を和尚さんが見ていて、どうも頭を下げている武士は、お殿さんのお叱りを受けているんだと思ったそうです。
そして時々頭をあげて、向かいの武士の顔を見るのは、その武士は何かを知っているのでしょうか、助けてくれと、君が一言いってくれたら、殿様の勘気が冷めるんだと。
口で言えないから眼で知らせてるんですね。
ところが相手は、知らん顔している。
推測ですが、例えば会社の中で、二人が出世するという場合に、競争になりますね。
どっちも自分が出世したいでしょ。
その場合に、相手を蹴落とす。ある事無い事を触れたりしてね。なんとかしてマイナス面を上の者の耳に入れて。
そしたらこいつはだめだと。こっちを出世させてやろうということですね。
そういう策略を使うことがあるでしょ。
選挙でも相手が落選したら、自分が当選するというように、怪文書を回したりしてね。
これは今も昔も同じだと思うのです。
それをやられたのではないかと思うのですね。
卑怯じゃないかと、口に出して言うわけにいかないから、顔を見て訴えているのですね。
或いは、恨んでいるのか。
そういう姿が見えてきて、それを見ているときに、相手の人を蹴落としたその人は、この和尚さんに相談をしに来ている奥さんの主人だなと。主人の前世ですね。
なんでそんな場面が見えてくるのか、和尚さんは見ようと思っていないのに。
なにか理由があるのですね。
だから、このご主人は、前世で人を蹴落としたんだと、そう思ったそうです。
或いは、助けを求められたのに、自分の出世のために助けなかったか。
その報いが今来て、倒産となっているのだと。
計画倒産に追い込まれたんですね。
和尚さんはそう思ったそうです。
そういうことで、我々は前世で何をやってるのか分からない。
然しながら、結果は来る。
善きにつけ悪しきにつけね。
祇園精舎を建てた、給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)という人があるのです。
孤独な人に供給する。困った人に布施する長者というあだ名が付いたんですね。
ほんとうの名前は、須達(しゅだつ)。須達長者。
お経では、給孤独と出てきますね。
その方は、お釈迦様に祇園精舎を寄附したのですね。
前の仏様のときも、生まれてきて、寄附をしてるんです。
その前の仏様のときも、お寺を建てて寄附をしている。
そして困った人があれば寄附をする。
だから何時生まれても、何時生まれても、長者なんだと。お経に出てきます。
我々は何か不幸が起こったときに、人を恨みたくなるわけですね。
その原因が外からきたらね。
例えば、車に当てられて片輪になったとしますと、その運転手を恨む。
それが普通なんですけどね。
然し、仏教の建て前からいいますと、自分に原因が無ければ、そういうことにならないのですよ。
むしろ、自分がその場に居たから事故になったわけで、その運転手が気の毒だと。
事故に遭うと、相手の人を恨んで損害賠償ということになりますが、仏教の建て前から言いますと、それはしないほうがいいと、いうことになるわけです。
今は、損害保険に加入している人がほとんどだと思いますが、若し加入していない人に事故に遇わされたら、その人に請求しますね。
ですが、事故に遭うというのは、自分の過去に原因があるのだから、自分が悪い、ということになる。
自分に罪があったから、その人になったというだけで、その人に罪はないということになる。
だから事故に遭ったら、そこで前世の罪がひとつ消えた、ということです。
因縁がそこで消えたんです。
消えたらそれでゼロになったんだから、それでいいのだけど、そこへ賠償を要求すると、消えない。
この世で人生が終わるんじゃないのですから。
来世が続くのですから。
人生は一度ではないのですから。
だから和尚さんは常々言いますが、死刑は賛成すると。
人生が一度だけなら反対すると。
たった一度の命なら、多少罪はあるかしらないが、死刑は止めて、無期のほうが辛いかわからんけど、と。
然しながら、あの世という世界があって、あの世でも報いを受けるのですから、例えば地獄があるのだから。場合によれば地獄へ行くかもしれないのだから。
死刑にされるような罪があるにもかかわらず、死刑されずに、一生を送って、あの世へ行ったら、それで上手く済んだというわけにはいかない。
向こうへ行けば、その分だけ罪を上乗せされるんだから。
この世でやったことはこの世で果たして行ったほうがいいのです。
死刑囚なら死刑を執行したほうが、本人があの世へいったら、ああ死刑を受けてよかったと思うはずですね。そういうことになってくるのです。
話が横道に反れてしまいましたが、兎に角、運命というものはあるんだと信じて頂きたいですね。
その運命というのを仏教の言葉で置き換えたら、因縁という言葉になってくる。
だから運命は良くも悪くも自分がしてきたんだということです。悪いのは、自分だということです。
孔子の言葉にありますが、五十にして天命を知ると。
あの方があれだけの学問があり、智慧があり、真面目な方で、立派な思想を持っていた。
この思想が、誰でもが用いてくれそうなものなのに、何処へ持って行ったってなかなか人は用いてくれないのですね。
それでもう困って困って、食べるにも困るということもあったんですね。
それで世の中を見ていましたら、智慧も才覚も何もないし、ぶらぶらしていているような者が、すいすいと世の中を渡って行く。
ところが、真面目な人が努力もして賢いのに、うだつの上がらないという人もある。
何故なんだと思うわけですね。
どうも、人間は天命というものがあるのではないかと思うのですね。
孔子は天命と言っていますが、運命のことですね。
作品名:和尚さんの法話 「因縁と運命」 作家名:みわ