和尚さんの法話 「因縁と運命」
「わしはこの滝に居る者じゃ。わしは真心込めて祈る者には、助けてやるのが仕事なんじゃと。叶えてやるのが仕事だと。然しながら、お前に掛けられた願は、叶えてやれないだと。おまえは子供の命を助けてくれ、子供が助かるなら自分の命は縮まっても取り替えてもいいと言うけれども、この子供は、ここで死ぬべく生まれている。もう決まっていると言うのです。おまえは取り替えてくれ、すげ変えてくれと言うが、おまえは長命だぞ。それも決まってるんだと。これも良い方に決まってるんですね。だから取り替えることもすげ変えることも出来ん。わしとしては実に辛い。せめて、おまえの気持を察して泣いてやる。」
と言って、おいおいおいおい泣くんだそうです。
この声の主は、滝の不動明王です。
そして、「おまえは疑い深いから、これだけ言うても信じられないだろう。だからひとつ言うておくが、この子供は、幾日の何時に死ぬぞと。わしの言うとうりに死んだら、わしが、神仏が言うているのだから、神仏が有るということを信じよ。おまえは何れ神仏に仕えて行く身だぞ」と、こう言われたというのです。
助からないと言われたけれども、それでもあいも変わらず滝に打たれに行っていたけれども、その時間どうりに、子供は死にましたと。
こういう体験談を和尚さんが聞かされたのです。
それがきっかけで、その人は信仰するようになったんです。
だから、生まれる先から、お母さんの胎内に宿る先から、短命に生まれることが決まってるということです。
そういうことは我々は知らないだけなんです。
神仏の眼には見えてることだけど、我々は知らない。
兎に角、申したいことは、運命というものはありますよ。
和尚さんのところに相談に来る人は、運命を信じている人が来るわけですけど、運命を信じる人は、信仰に縁が近いですね。
信仰というのも神秘的ですし、運命というのも神秘的でしょ。
だから運命を信じる人は、信仰を信じ易いですね。
その運命は何で決まっているのか、というのが原因ですね。
死ぬというのは結果ですが、知らねばならんというのが仏教で、業。という因があるんだと。
だから短命という結果がきたと。
全てそういうふうに解釈をするわけです。
ですから、運命ということは、運命鑑定の人は、この人はこうで結婚をしたら、こうなるんだと、そう言っていたらいいのですよね。商売だから、運命はそれでいいのです。
然しながら、和尚さんは住職ですからそういうわけにいかない。運命は因縁なんだと。こういうわけです。
因縁ということになってくると、原因はこうですと。結果はこうなるんだと。
何でそうなるのか、というところへ持って行かなくてはなりませんね。
運命というものは、偶然と違いますと、原因があるからそうなるのですと。
その原因は貴方にあるのです。と、こういうことになってくるわけです。
これも以前に書いたことがあるかもしれませんが、千本の今出川をちょっと北へ上がって、右側に、くぎ抜き地蔵というお地蔵さんがございます。
それはくぎ抜き地蔵さんの云われですが、和尚さんがくぎ抜き地蔵さんの前を通りかかって、変わった名前のお地蔵さんやなと思って、自転車を止めて、中へ入っていくと、三宝にパンフレットが乗って、あってご自由にと書いてあるから、一枚貰って読んでみますと、そのお地蔵さんの云われが書いてあった。
それが何百年か前に、その辺に住んでいた長者が、体中が痛くなって、医者に診てもらって薬を飲んでも治らない。
そしてそのお地蔵さんを信仰している、或る方が、お医者さんもお医者さんだけど、信仰もしなさいと。
あのお地蔵さんは、弘法大師さんが、中国から修行をして帰って来たときに、中国の石を持って帰ってきて、心を込めて彫ったお地蔵さんなので、霊験あらたかやから、あのお地蔵さんを信仰しなすったらどうですかと。
それを聞いて、もう藁をもつかむ気持ちになって、お願いしますと。
そうしましたら、或る晩に夢を見まして、お地蔵さんが夢に現れて、おまえの病気は前世の業病だと。
前世で或る罪を犯したその罪の報いによって起こってきている病気だと。
だから、お医者さんや薬では治らんと。
然し、その業というのも深い浅いというのがあるので、100%の業もあれば、90%の業もあり、80%の業もある。段々とあります。
%が下がれば、低くなればなるほど、罪は軽いわけです。
それで、おまえの罪は、おまえのこれからの行いによって、わしはその罪を脱ぐってやれるんだと。こう言ったのです。
どうじゃと。
どうぞお願い致しますと。
そうか。それなら、わしとひとつ約束をしなさい。
はい、お約束を致しますと。
但し、一生守ってもらいたいのだぞ。
はい。一生まもります。治りたいばっかりにね。
然し、まあ無理なことは言わん。
些細な事でいいから、一生、良いことをしなさいと。
悪いと思うことはしれはならんぞ。良いと思うことをやれと。
一遍にたいそうにせんでいいと。
小さいことでもいいから、積み重ねて一生やれと。
そして、一生やって、一生たったら病気が治るんじゃない。
病気は近いうちに治してやる。
約束は、一生まもってやってくれと。
病気が治ってもやってくれと。
はい、致します。
それから言われたとうりに勤めたんですね。
その時、前世で何をしてそんな病気になったのか教えてやるが、或る人と喧嘩をして諍いを起こして、その人を恨んで祈り釘を打ったというのです。
時代劇に出てきますね。牛の時参りというので、藁人形を打ち付けたんですよね。
昔はそれを本気でやってたんですよね。
それを殺意を持ってやってますね。
本人には手をかけてないけれども、心では殺してやると思って釘を打つわけですから。
仏教では心でやることでも罪になると書いてますからね。
「身口意の三劫ですね」。
身体でやったことも勿論、罪になるけれども、心に思うだけでも、業になる。口で言うただけでも業になるといいますね。
これはお経の中にございますね。
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)と。
我昔、作りし心の諸の悪業は
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)
無始というのは、始めが無いという意味です。永遠の過去からということです。
我々は霊魂不滅が前提ですからね。
永遠の過去から、この貪欲を持ち。怒りを持ち。愚痴というのは、ぐちぐちとうるさく言うのではなくて、本当の道理を分からないという意味です。だから悪を犯す。
無始以来餅続けている、怒りと貪欲と愚痴によって、それが身体で行うか、口で行うか、心で行うか。ですね。
語というのは、口ですね。
身と心と口によって生じる処に従えて、一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)と、続きますね。
懺悔文ですね。
我々は罪というと、身だけだと思っていますが、口も意も罪になるのです。
お経の中に、この貧乏人が何故おまえがこんな所へ出てきて。
おまえが出てくるから私は仏様にお供養が出来ないのだと。
その結果、貧乏な貧乏な境涯に生まれて。
それがあの貧者の一灯に出てくるあの貧者です。
そんなおとぎ話みたいなことと皆さんお思いになるでしょうけど、霊魂不滅ということになると、有り得ることですね。
作品名:和尚さんの法話 「因縁と運命」 作家名:みわ