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抽象音楽と恣意的な社会の関係-わたくしとパーティにおいて

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 しかしながら、数学は確かに恣意性の入り込む余地はないとして、それは誰にとっても、または人間など存在しなくても差し支えないような、普遍的な真理なのでしょうか。否であります。数学的実在ですとか、数学的真理などということを言う人がいると聞きますが、わたくしにはさっぱりわかりません。数学的な事象といいますものは、ただ多くの人間にとってたまたまそういうふうに感じることができるというだけのことで、そしてたまたまその経験が多くの人においてとても似ているために合意しやすいというだけのことです。もちろん、その、多くの人がほとんど同じような経験ができることこそが重要なのですが、とりもなおさず、それは個人に起こる事象でございます。
 「1+1は2である。これは真理である」と言う人がいたとします。彼に反論の余地なく論駁することは、たやすいことです。「それはあなたの見解です」と言えばそれで済みます。
 すでにお気づきの方もいらっしゃることでしょう。数学が抽象的な数字や演算記号から喚起される個人の経験であるさまは、抽象音楽がわたくしどもに個人的な経験をさせるさまと、相似しております。そして数学が科学的検証の方法として用いられるのは、恣意性を排除した、彼自身の感性のみに依拠した形でなお、それが多くの人に似たような経験をさせるがために、個人のユニークな個性を尊重してなお、合意が可能であるからであります。してみますと、抽象音楽にもまた、数学のこのような特性が、備わっているのかもしれません。

 もうひとつ、抽象音楽と比較できそうな事象がございます。ある様式の詩であります。
 象徴主義と呼ばれておりますフランスの詩の潮流がございます。ボードレールがいました。ランボーがおり、マラルメがおり、ヴァレリーがおりました。ヴァレリーの『海辺の墓地』が、宮崎駿氏の映画『風立ちぬ』に現われたことは、ご存知の方もいらっしゃることでしょう。

  風が吹き起こった…生きねばならぬ

 この潮流は、19世紀末に、ひとりの音楽家の、パリへの登場によって引き起こされました。こう言って差し支えがあるようでしたら、盛んになったと申し上げてもよいでしょう。その音楽家とは、リヒァルト・ワーグナーであります。フランスの詩人たちにとって、彼の音楽は、詩の領域への、見逃しがたい重大な侵略でした。ワーグナーの音楽は、詩的な美を巧みに、ある詩人にとっては不遜にも、音楽に持ち込んだものと見なされたのです。こうして、詩と音楽の共通性と、相違性とが、盛んに議論されるようになりました。さまざまな見解が提出されましたが、結局詩人は詩の優位性を、独自性を保ちたかったのかもしれません、詩は音楽よりも優れたある点があると強調され、その原理に基づいた詩が作られました。それこそが、象徴主義であります。
 ときに、詩の音楽よりも優れたある点とは、なんであると考えられたのでしょう。みなさん、それは恣意性の希薄さであります。象徴派の詩人においては、詩は音楽よりも恣意性において弱く、よりそれを享受する個人の感性を尊重し、彼自身の力による美の味わいを深めるというのです。
 この彼らの言い分は初め奇妙に思えます。詩は申し上げるまでもなく言語によって成されるものであり、言語は恣意性そのものです。"イヌ"という音は犬のことである、"ウミ"という音は海のことである、というふうに、ある人が勝手に定めているのですから。しかしながら彼らにおいては、音楽こそが、それが露骨にある情景や感情を感じさせるものではなく、抽象的な音楽であってもなお、より恣意的なのです。なんとなれば、音楽を聴くということは、ひっきょう、他人が演奏した、すでに発生済みのものを受動的に聴くほかないからです。演奏者にとってはといえば、すでに固定された楽譜に従うのみであります。では作曲家においてはと申しますと、これはその限りではございません。
 では詩はいかにして恣意的でなくなるのでしょうか。詩も楽譜と同じように、書物として、すでに音ばかりか、言語的な意味すらも固定されているのでは? しかし必ずしもそうではないのです。ではここで、象徴派と呼ばれる詩人の詩を、ひとつ読んでみましょう。まだ象徴主義という概念が生まれる前に、ほんの二年ばかりで詩壇を駆け抜けていったあの放浪者、ランボーの、『花』であります。

 黄金の階段から、絹の紐、純色の薄紗、緑のベルベットと日向の青銅、黒ずんだ水晶の円盤が入り乱れる間に、銀と眼と髪の毛との翻る綿細工で織られた毛せんの上に、バニヤン樹の花が開くのが見える。
 瑪瑙の上にばら撒かれた金貨、緑玉の圓天井を支えているニグローダ樹の柱、白じゅすの花束と紅玉の細い鞭とは、水薔薇を取り囲む。
 巨きな青い眼で、雪のもろもろの形をした神のように、海と空とは、この大理石の臺の上に、若々しくて強烈な蓮華の群を引き寄せる。

 いかがですか。言っていることがよくわかりません。これぞ恣意性の排除の極致であります。観念としても、情景としても、また音楽的にも-これは翻訳ですが、フランス語としてもさまざまな音で読めるだろうことは想像できます-どのように捉えるかは、ひとえに個人の感性にかかっております。確かにこれならば、個人は自ら自身を、自ら見出すという、およそ考えうる最も高邁な人生の目的を、達成できるやもしれません。
 しかしながら、わたくしは象徴派の詩人たちに、あえて申し上げたい。抽象音楽にしても、このような詩にしても、とくに変わるところはない、と。確かに、スピーカーから発する音は、すでに発生しておりますし、レコードにはすでに溝が刻まれております。フロアのわたくしどもは、その時点では受動的な存在に過ぎません。しかし、わたくしどもには舞踏という武器がございます。これによってわたくしどもは、自らの力で、自らを見出し、あろうことか、自然に対して自らの存在を宣言することすらできるのです。それは詩が個人に固有のやり方で読まれるのと等価となります。

 さてここでわたくしは、象徴派の詩のように、思慮深くも恣意性を排除した場合に起こる、ひとつの問題に注意を向けようと思います。みなさん、それは晦渋さの問題であります。トルストイは申しました。
 「僕にはマラルメがさっぱりわからない。精神をすり減らすひどい苦労をして、ようやく少しだけわかる、という程度だ。こんなもの、こんなあたら将来有望な若者の人生を食いつぶしてしまうようなものが、いったいどれほど役に立つのかと、疑問に思う」