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抽象音楽と恣意的な社会の関係-わたくしとパーティにおいて

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今日はみなさんに身近な話をというご要望でしたので、抽象音楽とはいったいどういうものなのかについて、わたくしとみなさんを繋いでおりますパーティにおける場合を、わたくしなりに考えましたことをお話しさせていただきたいと思います。

 はじめに、わたくしが申しますところの抽象音楽とはなにかについて、はっきりさせておかなくてはなりません。みなさん、それは恣意的でない音楽、ないし恣意性の希薄な音楽のことであります。恣意的という語がなにを指すのかはっきりしないという方が多いかもしれません。これもはっきりさせましょう。恣意的とは、"ある人が自分の勝手な都合で「これはこうである」と見なしただけで、多くの他者の合意が得られるようなものではないもの"というような意味です。例文を示しましょう。

 「TVのクイズ番組の正解は、恣意的に決められている」

 例えば表紙の写真を示して、「これはなんでしょう」という問いだったとします。
 これは地球である、と答える人がいるでしょう。または、これは月であると答える人もいましょう。確かに左上に月が写っていますね。あるいは、これは惑星である、とか、これは宇宙であると答える人がいるかもしれません。なるほどもっともではあります。それから、これは写真である、という答えも間違ってはいないでしょう。さらには、これは光である、とか、これは物質である、とか、これは青色である、とか…正解と考えられる答えは、無数にあることでしょう。しかしこのクイズ番組の制作者は、「地球」を正解だと決めたとします。これは彼が彼の基準で勝手にそう決めたというだけであって、他者のいろいろな視点からの検証に耐えて合意されうるようなものではありませんから、恣意的です。してみますと、クイズというものは、「真実を正解するゲーム」ではなくて、「クイズを作った人が定めた真実を推察して正解するゲーム」でありますが、それはさておき。
 わたくしがパーティに参りますと、常に感じますのが、このような恣意性をどうするかという問題でありまして、それは多くの場合、排除する方向へ向かうように感じます。もちろん、一口にパーティと申しましても、さまざまな形態がございます。音楽のジャンル-様式-と呼ばれるようなものに限りましても、トランス、エレクトロニカ、テクノ、ハウス、アンビエントなどなど。わたくしどもがパーティで用いているこれらの音楽は、確かに多様ですけれども、ひとつ共通するものを抜き出せないでしょうか。わたくしは言語の使用の少なさを抜き出してみようと思います。
 あるDJが、「我々の苦しみの原因は暴力だ」というようなことを、フロアの人々に伝え、共有したいと考えたとします。ことは簡単なようにも思えます。「我々の苦しみの原因は暴力だ」と叫んで録音し、それをループさせればよいではないか、と。現に、この最も素朴な手法は、今日もなお広く用いられ、効果的ですらあります。TVのニュース番組で、街頭インタビューを受ける、次のような人を見たことがある方には、了解していただけるのではないかと思います。
 インタビュアーが、「自民党(民主党でもなんでもよいのですが)についてどう思われますか」と尋ねます。彼は微笑しながら答えます。「よくないと思います」もちろん彼は、自民党について何かを判断できるような、充分な調査をしているわけではありません。つまり彼は本当は、「よくないと言っているのを聞いた(見た)」と言うはずだったのですが、思わず、「私は思います」と言ってしまったのです。
 こんな話はさておきまして、我々のDJの話に戻りましょう。もしも実際のパーティで、さきほど申しました手法を彼がとったなら、どうなるでしょうか。おそらく、フロアには誰もいなくなり、わたくしたちは、帰宅の準備を始めるのではないでしょうか。それは、この音楽-仮に音楽と呼びましょう-が、あまりにも恣意的だからではないでしょうか。わたくしどもにとってその音楽は、ただ、「我々の苦しみの原因は暴力だと言っているな」と感じられるだけです。「そうか、我々の苦しみの原因は暴力なのか」とは感じられないわけです。わたくしどもがパーティで用いる音楽に、言語の使用が少ないのは、こうした理由によるでしょう。
 では、「そうか、我々の苦しみの原因は暴力なのか」というふうに、わたくしどもが自然に感じるためには、我々のDJは、どのような手法をとればよいでしょうか。このような哲学的に単純とは言いがたい観念を伝え、共有するなら、もはや抽象的な手法によるほかないでしょう。と言いますのも、恣意的な-具象的な-音楽は、パーティにおいては、わたくしどもに、わたくしどもの自由でユニークな感性への侵略と捉えられ、拒絶されるからです。なんとなれば、この近年留まるところを知らぬ、世俗の恣意性の暴風に傷つけられたわたくしどもの繊細な感性は、このような侵略をこれ以上は許さぬものだからです。パーティにおいて、あまりにも露骨な、「これで上がっておけ」と言わんばかりの曲が唐突にかかり、白けてしまったというような経験をお持ちの方なら、ご了解いただけるものと思います。
 そうは申しましても、もちろん、抽象的な表現からなにを感じ取るかは、個人の事象ですから、共有というようなことになりますと、これはほとんど不可能にも思えます。しかしこの難しさが成し遂げられたと感じられるとき、そのときこそ、わたくしどもがパーティに求めているものが、ヴィナスの誕生に波立つ海とともに、立ち現われるのではないでしょうか。ひとつ付け加えますと、我々のDJにとってみましても、その表現しようと意図するものは、実際には、抽象的なものでしょう。彼は、抽象音楽の時間的な連なりによって、その総和として、ある効果を狙うでしょう。
 まとめてみますと、わたくしが申しますところの抽象音楽とは、人の自由でユニークな感性に土足で踏み込むことのない、これはこうであると明示されてはいないものの、美という語がかろうじて内包しうるものを表現した、音楽、というように定義できますでしょうか。

 ところで、抽象音楽について考えますとき、なにか比較できるような、類似の事象があるでしょうか。数学はどうでしょう。
 数学で用いられる数字や記号は、文字通り、抽象的です。それがなにを指し示すのかについては、数字や式は、ただ沈黙しています。これでは恣意的なもの-ある人のある都合-が入り込む余地はありませんから、科学的な検証における人々の数学への絶対的な信頼も、確かに了解できるものです。