抽象音楽と恣意的な社会の関係-わたくしとパーティにおいて
と。トルストイと同じくマラルメがさっぱりわからないわたくしとしましては、まったくもっともなこととも思います。顕示欲、経済学に汚染された言葉を注意深く監視し、充分に古いか、充分に新しいかいずれかの基準を満たす新鮮な詩句を選出し、安易さと軽信を排除した情景を建設するという、この良心的な努力は、しかし必然的に晦渋さへとたどり着く運命にあります。そしてわたくしどもがわたくしと名づけているこの一人物は、無条件に安楽と享楽を愛する利己の権化でありますから、それを成し遂げることの困難を一度覚ったならば、即座に打ち捨てて振り返ることがございません。しかし一方で、怠慢で顕示欲に満たされ、おのれの自然的ないし超自然的な実在と不滅とをふてぶてしくも妄信する、この鼻持ちならぬ人物は、たったいま打ち捨てたものの本質を、奥底では知っているのです。ただそこへと至る迂遠な道程を厭っているに過ぎません。そこである人は、思い直す場合があるのです。ある人とは、先にお話しましたたぐいのアンケートにおいて、常に無視される最少数派の、「わからない」「無回答」に含まれる、恣意的な社会に知性という防御壁を立てた人々であります。月並みで恣意的な言辞に打ちひしがれた彼らは、多くの人が打ち捨てた、これら先人たちの晦渋な良心を拾い上げ、検討し、彼にしかできないところの努力をもって、自らの血肉とします。この学問こそが、このおよそ人間らしい仕事を人々から奪い取った社会においては、彼の唯一の人生の原理となるのです。
既成概念。自分の殻を破る。こうした言い回しを聞くことは少なくありません。しかし多くの場合、その既成概念とか殻とかいうものは、自分自身で作ったもの、とされてはいないでしょうか。そうではない、とわたくしは申し上げたい。それは他人によって作られたものであります。ある人がある都合で、これはこうである、彼はこのような人物である、これはこれこれの価値がある、としたものを、わたくしどもは、有形無形の恣意的な濁流として、受け止めねばならぬ状況におります。ここにおいていよいよわたくしどもは、パーティへと避難し、抽象音楽の助けを借りて、そこで自ら自身を取り戻し、自然に対して、あらためて名乗らねばならぬのです。わたくしはここにいる、と。
さて、わたくしの申し上げたいことは、だいたい以上でございます。最後に、みなさんが感じておられるでありましょう疑問にお答えいたします。恣意的なものについて述べますわたくしのこの言辞は、これこそが恣意的ではないか、とお感じになられているのではないでしょうか。いかにもそのとおりであります。しかしわたくしの申しますことをみなさんがどのようにお感じになるか、わたくしは物理的に関知できません。それは政治や経済、さまざまな他者の言辞が、みなさんの感性に立ち入ることができないのと、まったく同じことなのです。