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和尚さんの法話 「無常」

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この世は三界ですから煩悩の有る世界ですから有漏地といいます。
三界を超えたら、無漏地。三界を超えたら阿羅漢様以上の方が居られる世界ですから無漏地といいます。


次は日没無常偈。
「人間匆匆として衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚らず、燈の風中に滅すること期し難きが如し茫々として六道に定趣無し、未だ解脱して苦海を出づることを得ず、云何が安然して驚懼(きょう)せざる、各々聞け強健有力の時は自策自動して常住を求めよ」

今でこそ世の中が世知辛くて、忙しくて忙しくてという時代ですが、これは唐の時代の言葉ですが、人間匆匆たることは衆務を営む、とここのところを日本の坊さんが和讃というのを作ってるのですね。日本語で詩を作った。
日夜に命の去ることを覚りざりける儚さよと。
この匆匆というのは、慌ただしいという意味ですね。
お手紙を書いて、匆匆と。急いで書いて御無礼をお許し下さいと、早々と書きますね。
だから我々は日々匆匆としていると。
そして、その間でも命は待ってくれないと。朝となく昼となく夜となく待ってくれないのだから、朝は安堵、昼も安堵と、そんなものではないと。
同じ速度で命というのは縮まっているわけですね。

その命が日夜無くなっていくことを覚らない。
命というものは、もう死ぬときは決まっているのですから。知らないだけのことでね。
だから一日たてば二日、二日たてば三日、それは死に近付いているのですよね。
日夜に去ることを覚らすと。
命があの世へ去っていく、縮まっていく、それを覚らないというのですね。
我々の命は風の中で漂っているようだと。
ロウソクの火のようなもので、何時消えるかわからない。
つまり自分が死ぬということが分からないということを言ってるのですね。
次の風で消えるのか、いやいやその次の風で消えるのか、何時消えるのか分からないと。
我々の命が消えるのが何時か分からないということを忠告しているのですね。

茫々として六道に定趣無しというのは、茫々というのは分からないという意味ですね、猛然として。
六道に定趣というのは、この趣というのは、六道のことを趣と言うのですね、六趣とも言います。
我々は何処へ行くのか決まっていないということをいうのです。
六道に定趣無し、ということは、行くところが決まっているということなんです。天上界なら天上界と着待ているのなら、まだいいと。天上界へ行けるのならばね。
然し、何処へ行くか分からない。
茫々として六道の定趣無しということは、何処へ行くか分からないということです。

未だ解脱して苦界を出づることを得ず。
未だ我々は苦の世界、つまりこれは三界六道のことを例えているですが、そこを解脱していない。解脱出来ていないということですね。

云何が安然して驚懼(きょう)せざる。
それであるのにどうして安らかな気持ちで安然として懼れないのかと。
懼れ驚くということですね。

死んだらもう六道へ行くのが決まっているのに、六道を出ることは出来ないけれども、六道の何処かへ行くに決まってある。然し、それは何処へ行くか分からない。
そういう状態であるのに、どうして安閑として日暮するのかと、いう警告ですね。

各々聞け強健有力の時は自策自動して常住を求めよ。
諸君、聞きなさい。私の言うことを聞きなさいと。
歳をとって杖をつかないと歩けない、というようなときになってきたら、さあどうしようということになるとし難いけれども、若いたくましい力のある時に、早くやっておきなさいということですね。
若い力のあるときに努力して自分に鞭打って、常住ということは真実の世界ということですね。
だから無常の反対が常住。
無常というのは消えるものですから、一旦この世が終わったらまた消える。
消えたり現れたり、消えたり現れたり。生まれたり死んだり、生まれたり死んだりでしょ。それは無常ですね。無常は仮のものです。
常住は真実のものです。
真に至り給えと、常住を求めよ、というのは一緒のことを言ってるのです。
これを浄土門でいうならば、極楽へ行きなさいと。
極楽へ行ったら、もう死なないのですから。
極楽のことを、無量寿国と言いますね。命は無量だと。
死なないということです。行ったらもう輪廻しない。
阿弥陀様のことを別名、無量寿如来。
だから常住を求めよということは、浄土門でしたら極楽を求めなさいということですね。
極楽というのは、常住の世界だから、という意味ですね。

我々は浄土門を頼らずに真の常住を求めようと思ったら、難行苦行をして三界六道を越えなければ行けない。
ですがそれは、法然上人がとてもじゃないが出来ないと、投げたのですから。
我三学の器に非ずと。
この三学というのは、坊さんの、修行者の必須科目なんですね。
これだけはやらなければいけないと。
戒定慧。
戒律。禅定。智慧(般若ですね)
戒律を守って、禅定を発揮して、般若の智慧を知ら得る。
これが完璧に出来たら、三界六道は解脱出来る。
舎利弗、目連は皆これをなさっているわけですね。
法然上人は、これは自分はだめだと、いうので是よりほかに救われる道は無いのだろうかと、そこに躓きがあったのですね。
自分も出来ないのに、況や一般の衆生は出来るだろうかと。
これをしないと救われないとなると、永久に救われないと。
そんなはずは無いと。
そこで善導大師の観経疏に出会って、そこにこうしたら救われるということが説かれてあって、これだと。思ったのですね。
ところが、今と違うのはその当時は、自力聖道門ばっかりでしたからね。
そんなときに、お念仏で救われるなんて、南無阿弥陀仏で救われるというのでしょう。
それを信じた者も、本当かな、そうかな、本当かな、と、ちらりちらちと疑問が起こるのですね。

そうしたときに、或る晩に夢を見て、西の方の空に紫の雲に乗って、一人の坊さんが現れるのですね。
下半身が金色で上半身が黒い衣姿の坊さんが現れたのですね。
貴方は何方ですかと聞きますと。
私は唐の善道だと。
それでいいのだ、と言って安心させてくれたのですよ。
私が極楽へ往生しているではないかと。いう姿を見せたのですね。
それでもう安心決定したわけです。
それを形どって、浄土宗のお仏壇は、善導大師と法然上人を祀ってますね。

そういうことで善導大師は六時礼賛というものを作って、その中にいろんなことを説いてる中にも、無常ということが出てくる。
それでも念を押して更に無常偈というのも付けて。
そして人にも勧めたのでしょうけど、自分で勤行をしていたのですね。
無常ということは、死ぬんだということを本気で以って考えないと、何時か分からない。
何時死んでも大丈夫という心境になっていないといけませんよね。
その心境を獲得しておかないと、死が突然訪れてきたら、顛倒、錯乱すると。
突然死が訪れてくると、頭の中が真っ白になってしまって、何が何か分からんというような表現のお言葉を善導大師が残されていますね。

一遍上人は、まだ元気な時に、「我往生近きに有り」。とこう言っているんですね。
すると皆は、まだ元気なのにと、びっくりしてしまうんですね。
そして病に倒れるのですね。
作品名:和尚さんの法話 「無常」 作家名:みわ