和尚さんの法話 「無常」
あの世があるにしたって、死んだら皆、平等というのだったらね、善人も悪人も皆が平等であるのであったら、こんな無常なんてことを言わなくて宜しいわけです。
そしたら悪い事をした方が得ですね。
だいたいこの世は善いことをしてたら損ですわね。
損か得か、悪いことをしたら儲かりますよね。
真面目に真面目にやってたら少々何かしたって儲からん。というようなことと違いますか。
だから、いくら悪いことをしても、死後に何も報いが無いのだったら、ちょっとでもごまかして悪いことをしないと損ですわね。
ところがそうじゃない。そんなことをしたら後で大変なことになるという、あの世のシステムですね。
それをしっかり知らないと、うかつに我々は日々の生活をするとそういうことになるのです。
善導大師という方がいらっしゃいますね。中国の方ですね。
法然上人が、その善導大師を非常に尊敬してたんですね。
その時代は皆、比叡山で修行をしてたんですね。仏教の総合大学のようなところでしたからね。
ところがその比叡山は、天台宗で自力聖道門ですね。
自力の仏教を覚える処ですね。
然しながらそれしかなかったから、皆一応比叡山へ行ったわけです。
ところが法然上人は、つくづく考えて、こんな難しいことをしなければ人は救われないのかという疑問が起こってきたのです。
山を下りてきたんですね。
法然上人は、我々自体でもこれは疑問であるのに、況や一般の人々がこんな道を辿らないと救われんのかと。これは不合理だと。
これでは全ての人は永久に救われないではないか。
なにか救われる道はないのかという疑問が起こってきたわけです。
それで法然上人は、あらゆるお経を読んだんですね。
お経も読み、それから偉い先輩の方々の坊さんの現わした論書も読み、しましたんですね。
そうしたところが、またまた目に触れたのが、善導大師の現わした観経疏という書物があるんですが、観無量寿経というお経がありますね。
大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経。これを浄土三部経といいますね。
この観無量寿経を解釈した論書が日本へ渡ってきてるんですが、これが善導大師が現わした論書です。
その論書を読んで、これが救いの道だ。
これが凡夫の救われる道だということを覚ったんですね。
それがきっかけで法然上人は、何もかもその善導大師がおっしゃったことを最後まで守った方なんです。
その善導大師が、六時礼賛というのをお作りになっているんです。
これは詩なんですね。仏教の詩です。
この六時というのは、今は一日を二十四時間で、一日のことを四六時中といいますように、二十四時間になりますね。
ところがインドの時間というのは、六つに区切ってるんですね。四時間単位で一時、二時、三時・・・そして六時。そういう切り方をしてあるんですね。
一番初めは、農朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜。これを六時というのです。
これを四時間づつに区切ってあるのです。
この時間ごとに、日中礼賛とか日没礼賛というように詩を作ってあるのです。そして礼賛詩を褒め称えるというのですね、仏教の教えを。
その一番最後に必ず「無常」ということを付けてあるのです。
無常偈といいますが、この偈というのも詩という意味ですね。仏教の詩を偈といいますね。
短い調子のいいお経を皆、この偈と言います。
無常甚深微妙法、百千万業難遭遇・・・とこういうふうに調子が整ってますね、そういうのを偈というのです。
その無常偈というのも、一番最後に作ってあるのです。
日没無常偈とか、初夜無常偈とかいうふうにね。
宗派によって、この礼賛を中心に勤行をするそうです。
礼賛が終わって、無常偈が始まりますと、終わるまで立つことも座ることも、歩いている者は止まって、動いてはいかんそうです。無常偈が終わるまで待つんだそうです。
今は形だけですけど、大昔に始まったときはそれだけ厳粛にやったということですね。今でもその形式は残ってるということです。
無常偈が始まっていたら、そこでじっと終わるまで聞いているんですね。短いですからすぐに終わりますからね。
この中の、日中無常偈というのをご紹介させて頂きます。(和訳です)
「人生まれて精進ならざれば、喩えば樹の根無きが如し
華を採りて日中に置かば、能く幾時か絳(あざや)かなるを得ん
人命も亦是の如し、無常須臾(しゅゆ)の間なり
諸の行道の衆に勤む、勤修して即ち眞に至りたまらん」
お勤めのときはこれを漢文のままで読むそうです。
「人生まれて精進ならざれば、喩えば樹の根無きが如し」
努力しなければ、能かも樹の根が無いのと同じで、すぐに枯れてしまうということですね。
「華を採りて日中に置かば、能く幾時か経かなるを得ん」
綺麗に生きいきと咲いている花を切ってきて、水に入れないで陽のあたる地面に置いておけば、どんなに鮮やかな花であろうとすぐに萎んでしまう。
「人命も亦是の如し、無常須臾(しゅゆ)の間なり」
須臾というのは、ほんのしばらくの間という意味です。
そういう次第だから
「諸の行道の衆に勧む、勤修して即ち眞に至りたまらん」
修行に心を向ける人に勧めたい。努力して勤めて修行をして、愼に至り給えというのですから、真実の世界ですね、仮の世界じゃなくて真実の世界。この場合は極楽ですね、浄土教ですからね。
真実の世界は、永遠の世界ですから。
仮の世界は、無常の世界ですからね。
無常というのは、仮の物なんです。
だから昔は、この世は仮の世と言ったようです。
たしか和泉式部だったと思うのですが、あの方が子供を亡くしてもの凄く嘆いたんですね。
そして帰依している坊さんがありまして、そのお坊さんに悩みを訴えに行くんですね。子供を亡くした悩みを。
それでそのお坊さんが、貴方は歌を詠むんだから私も一首詠ませてもらおうと言うて、短冊に歌をさらさらと書いて渡したんですね。
その歌に何て書いてあったのかといいますと、この世へ仮に生まれてきて、人間というのは儚いものだと。仮のことを徒(あだ)といいますように、生まれてきたものは徒といいますね。
「仮に来て仮に徒なる身を知れと、教えて帰る子は知識なり」
人間とうのはこういう儚いものなんだと、いうことを知りなさいと、その生まれた子供が貴方に教えて帰っていった、死んでいったんですね、そういうことを言うのですね。
だから生まれてきて死んでいった貴方の子供は貴方にとって善知識だと。
これが人間の世界なんだと。死んでいくのが当たり前なんだという歌なんですね。
それが納得いかないから悩むということなんですがね。
昔は兎に角、この世を仮の世と言ったんですね。今はそういうことを言っても通用しませんがね。
「人生まれて精進ならざれば、喩えば樹の根無きが如し
華を採りて日中に置かば、能く幾時か絳(あざや)かなるを得ん
人命も亦是の如し、無常須臾(しゅゆ)の間なり
諸の行道の衆に勤む、勤修して即ち眞に至りたまらん」
ということで、仮の世でうろうろしなさんなということですね。
うろうろと言いますが、この「うろ」というのは、この世を「有漏」というのですね。
有漏というのは、煩悩が有る状況を有漏といいます。
作品名:和尚さんの法話 「無常」 作家名:みわ