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砂漠の月、星の姫~road to East~

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 迷うことなく、タリムは言った。決然としたその様子は、なるほど、砂漠に咲く一輪の凛とした白い花を彷彿とさせる。灼けつくような太陽にも頭(こうべ)を垂れることなく、真っ直ぐに前だけを見つめて咲き続ける気高い花、それがリーラの花だった。リーラの花は百合にも似た儚げな外観とは裏腹に強いのだ。
 タリムの言葉に、カシュガルが無言で頷いた。どこへゆくのかは判らない、当てのない旅であった。だが、たった今、この瞬間からは仲間がいる。たとい、どのような運命が待ち受けていようとも、共に立ち向かえる仲間がいる。そのことだけで、いかほど心強いことだろう。
 カシュガルが手を差し出す。陽に灼けた逞しい手であった。タリムは躊躇うことなく、その手を取った。
「これからどこへゆく?」
 カシュガルの問いにタリムは微笑んだ。
「東へ」
「東か、陽の昇る方角か、悪くはないな」
 カシュガルもまた屈託のない笑いを浮かべ、空を振り仰いだ。いつしか月は傾き、その輝きを徐々に失いつつある。代わって、東の空が次第に明るさを取り戻していた。
 長い砂漠の夜が明けたのだ。
 二人は顔を見合わせ、手を取り合ったまま立ち上がった。
                   (了)



☆ 第三夜【砂漠の蜃気楼】

 ソニンは無意識の中にそっと吐息を洩らした。ソニンのすぐ前に背を向けて座るタリム姫は、気づいた風もない。もっとも、優しい姫はお付きの侍女が勤務中に溜め息を一つついたところで、今更咎め立てしたりはしないだろう。
 タリム姫は王宮の奥庭の池に浮かぶ睡蓮のように凛として、池のほとりに咲くリーラの花のごとく気高く美しい。それに引き替え、ソニンは浅黒い肌にちっちゃな鼻、そばかすだらけと悩みは尽きない。同じ女として生まれ、しかも歳もわずかに一つしか違わないのに、どうして神様はこう不公平なのかと哀しくなってしまうけれど、タリム姫ほどの美人ならば、端(はな)から見とれはしても、妬む気すら起こらない。
 ましてや、姫はその美しい外見と共に、傍仕えの侍女や老いた庭師にまで心配りを忘れない優しい心の女性だ。ゆえに、姫を慕う侍女はいても、嫉妬する者は一人としていない。 ソニンは、今、鏡に向かうタリム姫の髪を丁寧に梳(くしけず)っている。うっかり者の彼女は、幾度も櫛を持つ手に力を入れすぎてしまい、その度に姫は形の良い眉をわずかにキユッと寄せることになるのだが、姫はけしてソニンを叱ったりはしない。
 艶やかな黒髪は、タリム姫の肩を滑り、滝のように腰まで豊かに流れ落ちている。そのひと房、ひと房をソニンは心を込めて櫛で梳(す)く。ひととおり櫛でとく作業を終えると、今度は髪を頭上高く結い上げていく。複雑な形のこの髪型は、今、都の若い娘たちの間で流行中のものだ。元々、タリム姫のためにソニンが考案したものだが、美しい姫がこの髪型をしているのが知れると、忽ちにして庶民の間にも広まった。それほどに、姫は国民たちの人気者であり、憧れの的であった。
 若い娘ならば、誰もがタリム姫のように美しいなりたいと願うのだ。国王の一人娘であり、世継ぎの姫君でありながら、けして居丈高でもなく、さながら砂漠に咲いたリーラの花のように美しいタリム姫なのだ。
 いつものように髪を結い上げ、仕上げに翡翠の髪飾りを飾る。小さなリーラの花が幾つも連なっているこの髪飾りは、姫がとても大切にしているもので、常に肌身離さず身につけている。それもそのはず、これは、姫の婚約者であるフィーロが姫に贈ったものだった。フィーロはこの国の宰相の息子であり、次代の宰相として頭脳明晰、武芸にも優れ、早くから将来を嘱望されている若者だ。フィーロもまた上背のある美男で、花のようなタリム姫と並べば、まるで東方伝来の絵巻物の中の人物のようだと人々は噂している。
「これでよろしうございますか?」
 ソニンが鏡の中のタリム姫に向かって問いかけると、姫は花が綻んだような微笑みを浮かべた。
「ありがとう、いつもながら、ソニンは申し分がなくてよ」
「姫様もいつもながら、その髪飾りがとてもお似合いでいらっしゃいますわ」
 ソニンもまた姫に倣って、軽口を言う。
 鏡の中の姫は、そっと白い手で髪飾りに触れた。許婚者のフィーロは、輸入された玉(ぎょく)の中でもとりわけ極上の石を選び、当代随一の腕の良い職人に細工をさせ、この髪飾りを姫のために作らせたのだ。
「フィーロ様は、今頃どうして、いらっしゃるかしら」
 普段は滅多に自分の不安を口にせぬタリム姫であったけれど、流石に今日は、それもできないようである。それもそのはず、今、この砂漠の中の小さな国は戦乱状態にある。しかも、大国モンゴルとの戦はけしてこの国に有利とはいえず、この城もいつ敵兵によって落とされるかといった切羽詰まった状況だ。 タリム姫もソニンも何事もないような顔で普段どおりの生活を送ってはいるものの、その心の中は不安で押し潰されそうになっているのだ。
「フィーロ様は我が国でも名高い勇者でいらっしゃいますもの。ご心配なさるには及びません、きっと勇猛果敢に戦っていらっしゃることでしょう」
 ソニンが控えめに言うと、タリム姫は小さく頷いた。
「そうね、皆が懸命に戦っているこんなときこそ、しっかりしなければならないというのに、私ったら、弱音を吐くなんて、駄目ね」
 ソニンは気丈にも微笑む姫を痛ましく見つめた。姫はまだ十六才になったばかりの少女だ。いくら聡明であったとしても、幼いときから一途に恋い慕い続けてきた婚約者が最前線で戦っているとなれば、不安に思うのも無理はない。
 ソニンは三年前に初めて王宮に侍女として上がった。今ではうっかりしたヘマも少なくなったが、最初は年輩の女官に物覚えが悪いだの粗忽者だのと叱られてばかりいたのだ。
 物影に隠れて泣いていることが多かったソニンに、優しく声を掛けてくれたのがタリム姫だった。以来、姫のためならば、何でもしようと心に誓ったソニンである。
 今も年相応の少女らしくもっと甘えたり不安がったりしても良いのに、それができない姫の立場を気の毒に思わずにはおれない。せめて、自分と二人だけのときには姉のように甘えて欲しいと思うのだ。
「ソニン」
 突如として名を呼ばれ、ソニンは我に返った。
「はい、何でございましょう、姫様」
 ソニンが務めて明るく訊ねる。鏡越しのタリム姫はもう翳りのない微笑みを浮かべていた。
「あなたはお逃げなさい」
 あまりにも唐突な姫の言葉であった。ソニンは顔色を変えた。
「何を仰せられます、姫様より先にこの王宮を出ることなぞ、ソニンは考えたこともございません。私はいつまでも、どこまでも姫様にお供致します」
 戦が始まったときから、戦局は悪かったのだ。何しろ、相手はあの草原の蒼き狼と謳われたモンゴルの王、チンギス・ハーンである。宮殿の奥深くに住まう女たちには知らされなかったが、勝算の方が少なかったのが現実なのだ。もとより、ソニンは最後まで姫に従うつもりだし、最悪の場合は死も覚悟していた。