砂漠の月、星の姫~road to East~
「戦(いくさ)なんて、どんな大義名分を掲げてみても、所詮は人と人が殺し合うだけだ。たとえ、そなたがハーンの意のままに想い者となっていても、ハーンがあの富める国を放っておいたとは思えない。滅ぼされることはなくとも、属国にはなっていただろう」
「でも―」
大粒の涙を流すタリムの背に、男の手がためらいがちに伸ばされた。
「済まない。少し言葉が過ぎたようだ。そなたを傷つけるつもりはなかったのだが、そなたがあまりにも私に似ていたものだから」
「私があなたに似ている?」
タリムが涙に濡れた眼で男を見上げた。
男が気まずげに眼を逸らす。
「私も国を捨ててきた」
「―」
タリムは驚いたように男を見た。
男が乾いた笑いを浮かべた。だが、タリムは、その皮肉な表情とは相反する、男の瞳の奥に宿る淋しげな翳(かげ)を見抜いた。それは、紛うことなく、孤独の翳であった。タリムは、今しも滅びゆこうとしている故国を捨ててきた。その彼女だからこそ、彼が背負っている翳が自分と同種のものだと悟り得たのだ。
恐らく、男もタリムと同様に、タリムの中の孤独の匂いを鋭い嗅覚でかぎ取ったのだろう。
「あれは―圧巻だった。今までの自分の信じてきたもの、価値観といったものがすべて覆されるほどの衝撃を受けた。たとえ何をしようが、誰を信じようが、自然の脅威の前に私たち人間は、あまりに無力すぎる。そのことを嫌というほど思い知らされた」
男が遠い眼差しを暗闇へと向けたまま、呟いた。固唾を呑んでいるタリムの前で男は続ける。
「私は見たんだよ、砂漠に落ちたひと粒の宝石と称えられたほどに文明を誇った国が一瞬にして砂の下へと消えてゆくのを」
タリムの双眸が大きく見開かれた。
「流石のハーンもかなりの衝撃を受けておられた。それもそうだ、ハーンは戦いによって勝利を収め、あの富める国を丸ごと手中にするはずだった。それがどうだ、勝利の美酒に酔いしれる我々モンゴル軍の前で、あの国は砂の海に沈んでいったのだ。草原の蒼き狼と謳われる我々が誇る英雄でさえも、砂嵐を止めることはできなかった。戦に勝ちはしたものの、我々の軍でもあまたの死傷者が出たことは事実だ。たったわずかの間に、それらの犠牲者の死はすべて無に帰した」
「あ―」
今、タリムの眼の前で、懐かしい祖国の最後の様子がまさに語られていた。王宮までの大路の両脇にはリーラの樹が並び、数年に一度花開けば、馥郁とした花の香りが風に乗って宮殿まで届いてきた。王宮前の広場の噴水を囲み、人々は憩い、自由を満喫したものだ。
王宮をぐるりと取り囲むように平民たちの住まう家々が立ち並び、市の立つ日は早朝から騒がしいほどの賑やかさで活気に満ちていた。
回りを死の砂漠に囲まれていたのが幸いして、これまでに一度たりとも外国からの侵入を受けたこともなく、砂漠を行き来する交易商人たちによってもたらされた情報が唯一の外界を知る術(すべ)であった。そのため、独自の文化が発達し、その国特有の高い文明を持ち、人々は満ち足りた中で暮らしていたのだ。誰もがこの繁栄が永遠に続くものだと信じ、失われることなど考えもしなかった。
そう、あの日、チンギス・ハーンからの使者がはるか砂漠の向こうからやって来るまで、この国の人々は労働の合間には陽気に歌い踊り、繁栄を謳歌していた。
「多くの者は物凄い砂塵と風に眼を塞がれていたようだったが、私は確かにこの眼で見たんだ」
荒れ狂う砂漠の中で彼が見たものは、一国が砂の中に埋もれてゆく壮絶な様だった。
「必死に眼を袖で覆いながらも、この国の最後を見届けなければならないと何故か強く思った。たとえ、いかほどあい争っても、人は神の起こした奇蹟の前にはこれほど為すすべもないのだ、ただ手をこまねいているしかないのだということを己れの心に刻みつけておかなければならないと思った」
タリムの眼に再び涙が溢れ、それは堰を切ったように次々と溢れ出し白い頬をつたい落ちた。
「そう、ですか」
気丈にも涙をぬぐいながら、タリムは男の言葉に相槌を打った。祖国の最後を聞けたことは、今の彼女にとっては、むしろ幸いだった。むろん、それは彼女にとっては残酷極まりないことではあったけれど、国を捨てて一人逃れた身にとって、その最後の様子を知ることは、せめてもの償い、いや、その国の民としての務めだとタリムは考えたのだった。
「そなたは強いな」
そんなタリムを男は痛ましげに見つめた。
「それに引き替え、私はあまりにも軟弱だ。眼の前で一国が砂の中に埋もれてゆくのを見て、すべてのものに嫌気がさしてしまった。戦いもこの世での栄達も何もかもが空しいと思うようになってしまったんだ。ひとたび空しさを感じてしまったら、もう何もかもが馬鹿らしくなって、いっそ、ここで死んでしまおうかと思ったが、自分の死に一体何の意味があるのかと考えれば、それすらもまた馬鹿らしくなった」
男は自嘲めいた笑いを零し、独りごちた。
「たとえ私が死んでも、何も変わりはしない。故郷には両親は既に亡く、私の死を悼む妻や子もいない。この広大な砂漠は私の骸(むくろ)を呑み込んで、相も変わらず今までと同じように存在し続けるだろう」
タリムは察した。無常を感じたがゆえに、彼は吟遊詩人に身をやつし、一人、軍を離れたのだろう。今更、どこにも自分の居場所を見つけられなくて、追われるように当て所(あてど)のない旅に出たのかもしれない。
「確かに、私たちは似ているかもしれない」
タリムは呟いた。追われるようにして砂漠の旅に出たけれど、行く先はない我が身―。
「あなたの名は―」
タリムが呟くと、男は応えるともなく、低い声で呟いた。
「カシュガル」
「―!!」
タリムの躰が一瞬、硬直した。カシュガルといえば、モンゴル軍の総大将チンギス・ハーンの甥にして、れきとした王族の一人であり、副将格としてこの戦いに従軍していたはずである。歳は二十六、勇猛果敢にして怖れ知らずの猛者だと云われ、ハーンにも可愛がられていたと聞く。
そんな男の心をも、祖国が砂に呑み込まれゆく様は動かしたというのだろうか。あれは、一人の人間の心をたった一瞬で凍りつかせてしまうほどの驚異だったのだ。
「一緒に来ないか」
唐突に言われ、タリムは驚いて男を見た。
「一度は捨てようと思った生命だが、それもできなくて、当て所のない旅に出た。このまま旅が続くのならば、仲間がいても悪くはない」
一度は捨てようと思った生命―、男とタリムの境遇は確かによく似ていた。死ぬにも死ねなくて、熱砂の砂漠を孤独に旅している。
「そなたはリーラの花のようだな」
男―カシュガルが手を伸ばした。そっと分厚い手のひらが彼女の髪に飾られたリーラの花に触れた。タリムは彼の手が触れた部分が熱をうっすらと帯びているような気がしてならなかった。
「リーラの花は私の国の言葉では梨羅(りら)というんだ。ここへ来るまでは、砂漠にも滅多に咲かない幻の花だと聞いていたのだがな」
「私も連れていって下さい」
作品名:砂漠の月、星の姫~road to East~ 作家名:東 めぐみ