砂漠の月、星の姫~road to East~
「私が敵方の言うようにモンゴルに赴いていれば、こんな戦いは起きなかったでしょうね」
タリム姫の眼に光るものがある。ソニンは慌てて言った。
「何を仰せられます。姫様は我が国の誇りでございます。我々はその姫様をむざと蛮族の長に差し出してまで、安寧を願おうとは思いもしませぬ。姫様は何もお気になされることはないのです」
この戦いの原因はハーンがタリム姫を後宮に差し出せといってきたところから始まった。ハーンは、砂漠の花と謳われる姫の美貌と、この国の高い宝飾加工技術に眼をつけたのだ。だが、姫の父である国王はそのいずれをもハーンに差し出すことを拒絶した。怒ったハーンは大軍を率いて、この国を攻めてきた。
「姫様への侮辱は、私ども国民すべてのへの侮りでもございます」
ソニンは心からそう思っている。この麗しく、花のようになよやかな姫を蛮族に差し出すことなぞ、到底思いもよらない。ましてや、姫には心から愛するフィーロがいるのだ。
「あなたの気持ちは本当に嬉しいわ、ソニン。私のためにそこまで言ってくれるなんて。でも、その言葉に甘えることはできない。あなたには大切な男(ひと)がいるのでしょう?」
「姫様」
ソニンは眼を見開いた。ソニンには恋人がいる。王宮勤めをするようになってから、後宮の門を守る兵士と恋に落ちた。後宮は王の私邸であり、今は亡き王妃―姫の母君や、その側妾たち、または王の子女が住まう。後宮である奥宮と王が政務を執る表御殿とは厳然と区別されており、国王以外の男性は、たとえ姫の婚約者フィーロといえども、門番の許しなしには後宮へと入ることは許されなかった。
ソニンは、いつしかその門を守る若者と愛し合うようになったのだ。むろん、そのことは、主であるタリム姫も知ってはいたのだけれど。まさか、姫が婚約者のフィーロと別れて一人淋しく不安な日々を過ごしているというのに、自分だけが恋人と逃げることなど、できるはずもない。ソニンの恋人は今も、姫の暮らす後宮の大切な門を守っているはずだ。
「私のことは良いのです。私はここでフィーロ様の御無事を祈りながら、あの方に再び生きてお逢いできるのを待ちます。でも、あなたまで、それに付き従うことはないのですよ、ソニン。今ならまだ城を出ることはできるでしょう。あなたは愛する人と二人でお行きなさい」
タリム姫はそう言うと、手前の大きな鏡についている引き出しを開けた。引き出しから小さな紙切れを取り出し、振り向きざま、ソニンに差し出した。
「これをお持ちなさい」
「これは―」
ソニンが眼を瞠る。タリム姫は淡く笑った。「これは通行許可証です。これを見せれば、表門も難なく通れるはずです、万が一、誰かに咎められたときには、必ずこれを見せて、私の使いで城を出るのだと言いなさい」
「姫様―」
ソニンは声もなく、女主人を見つめた。砂漠には滅多と見られぬ雪のように白く透き通った肌、黒曜石のように冴え冴えと輝く双眸、花のように愛らしい唇、まるで職人が丹精込めて刻み上げたような一点の曇りもない美貌―、まさに砂漠に開いた一輪の花と讃えられるい相応しい美貌である。
今、その美しい瞳に露のごとき雫が宿っていた。
「姫様、私は自分だけがおめおめと助かったとて、少しも嬉しくはありません。どうか、どうか、最後までお側に置いて下さいませ」
ソニンはその場に跪いて、懸命な想いでタリム姫を見上げた。
「ソニン、私の大切なあなただからこそ、あなたにだけは助かって欲しい、愛する人と幸せになって欲しいの」
タリム姫はゆるりと立ち上がると、ソニンを立ち上がらせ、その背に手を回した。
「勿体のうございます、姫様、私ごとき侍女に、どうぞお手をお離し下さりませ」
タリム姫に抱きしめられ、ソニンは狼狽した。
「ねえ、ソニン。一人っ子の私にとって、あなたは姉のように思う大切なひとなのよ。だから、最後に一つだけ、私のお願いをきいて。ね?」
「姫様―」
ソニンは自分もまた涙を流していることを自覚した。
「さあ、早く、これを持って」
タリム姫に手を掴まれ、ソニンは夢遊病者のように立ち上がる。姫はその力無い手にしっかりと紙切れを握らせた。
「幸せになるのですよ」
その言葉に背を押されて、ソニンは一人、姫の部屋を出た。一歩足を踏み出そうとして、思わず後ろを振り返ったが、すぐに俯き、再び歩き出した。彼女の目の前で姫の部屋の扉は固く閉ざされていた。
「姫様―」
ソニンは呟くと、涙を零しながら早足で後宮の門へと続く廊下を歩いていった。
その日の中に、城は落ちた。
すべてが燃え尽きることはなかったものの、城の半ばは敵方の放った火矢のせいで紅蓮の炎に包まれた。
ソニンは共に逃れた恋人と共に、それを遠く離れた町の片隅で見た。
―姫様―。
ソニンは思わず手を合わせ、今も城の奥にいるはずのタリム姫に呼びかけた。姫はあのまま城と運命を共にしたに違いなかった。赤い炎は姫が住んでいた後宮をことごとく焼き尽くしたのだ。
姫に執着していたハーンは姫の行方を探したが、焼け跡の死体は皆無残に焼けこげていて、姫その人だと断定することは難しかった。タリム姫は国王や許婚者に殉じ、炎の中で亡くなったのだと誰もが信じた。
もとより、ソニンもタリム姫の死を信じて疑わなかった。異変はその夜に起きたのだ。
勝利の美酒に酔うモンゴル軍の前で、奇蹟が起こった。夜半、突然の砂嵐が見舞った。夜営中の兵士たちは天幕から転がり出たが、多くの者はあまりの砂嵐でその光景を目撃することはできなかった。
丁度、その時、ソニンは恋人と国を出たばかりのところであった。小さな国は高い壁で周囲をぐるりと囲まれ、砂漠から遮られていた。ただ一つだけ、外界との通行に使用される大門があり、平時ならばそこには検問所が設けられていたが、国自体が廃墟と化した今となっては、無人であった。
その門を出た直後、突如、激しい怒号と悲鳴が背後で聞こえ、ソニンは思わず振り向いた。茶色い竜巻を思わせる砂嵐がたった今後にしたばかりの国を呑み込んでいた。
恋人と共に急ぎ、眼についた岩場に身を潜めたソニンは祖国が砂の海に沈んでゆくのをその眼で見た。焼け残った城が、町が、人々が瞬く間に砂に呑み込まれていった。壁からはるかに離れた場所にあった敵国の兵士たちも大方は皆伏していたが、中にはその光景を見た者もいた。
彼等は後々までこれを「神の怒り」だと噂し合った。それほどまでに、一国が砂の下へと埋没する様は壮絶であったのだ。
いっときの悪夢のような時間が通り去った後、人々が眼を開いた時、小さいけれども繁栄と高い文化を誇った国は、跡形もなく消え去っていた。後には、ただ砂ばかりの砂漠が広がるばかり―。
「何と儚い―」
ソニンの眼から大粒の涙が流れ落ちた。あの美しい姫の微笑も、壮麗な宮殿も、奥宮の女たちの笑い声も、すべてが夢のようなものであったのかと、ソニンは茫然と祖国のあった場所を見つめていた。ただ、砂漠が見せた気紛れな蜃気楼のようなものであったのかと―。
(完)
―あとがき―
作品名:砂漠の月、星の姫~road to East~ 作家名:東 めぐみ