砂漠の月、星の姫~road to East~
だが、故国はもう既に亡く、タリムの生まれ育った城も焼け落ちた。国を出てから最初のオアシスですれ違った隊商(キャラバン)の商人が話していた。タリムの暮らしていた国は、大きな砂嵐に巻き込まれて、それこそ魔法にでもかかったかの如くかき消えてしまったと。
すべてのものが一夜にして砂の下へと沈んでいったのだ。タリムのきれいな瞳からひとすじの涙が流れ落ちた。男は驚いたようにわずかに眼を見開いてタリムを見つめたが、すぐに何事もなかったかのように竪琴を奏で続けた。
タリムの心の奥底に男の弾く曲が滲みてゆく。それは彼女の疲れ切って乾いた心に優しく広がってゆく。熱砂の砂漠を潤す恵みの雨にも似ていた。
「良い曲だわ」
タリムはもう一度、素直に己れの想いを口にした。男の手が止まった。何を考えているのか、赤い炎をじっと見つめている。短い沈黙が二人を包んだ。パチパチと炎の燃える音だけがやけに耳につく。
男が傍らの枯れ木を無造作に炎に放り込むと、薪がはぜ、ひときわ赤く大きな炎が燃え上がった。その光景を見届けて、男はまたしても竪琴を抱え上げ、つまびき始める。
タリムは何も言わず、ただひたすら、その調べに身を任せ、聞き入った。静かな時間が流れてゆく。
―どうか、姫よ、生きて下さい。
その時、唐突に、亡き恋人の別れ際の台詞がタリムの耳奥に蘇った。タリムは、何故、この男の曲を耳にしていて、心が安らぐのかをこの時悟った。
彼の演奏は、まるですべてを委ねられるかのように安堵できる気持ちになれる。それは、亡きフィーロと共に過ごした刻(とき)にも似ていた。
―私は生きなければならない!!
タリムの意識の奥底からそんな想いが湧いてきた。
自分は生き続けなければならない。亡き恋人のために、無念の死を遂げた父のために、そして犠牲となった多くの故国の民のためにも。
「この髪飾りと食糧を―ほんの少しでも良い、交換して欲しい」
タリムが低い声で言うと、男はしばらくの思案の後、薄く笑った。
「ああ、取り引きに応じよう。だが、この髪飾りはちゃんとしまっておくんだな」
男は、タリムが差し出した髪飾りを彼女の方に押しやった。
「君にとっては大切なものなんだろう?それこそ生命よりもな。大丈夫、食糧のことは心配しなくても良い。ちゃんと交換してやるから」
男はふいに立ち上がった。何をするのかと思えば、伸び上がるようにして、リーラの樹の枝先についた白い花を一つ、摘み取った。
「これも君にはよく似合うぞ」
男の手によって、白く凛とした花はタリムの髪に飾られた。甘い花の香りがタリムの鼻腔をくすぐる。
男は、髪飾りを食糧と交換することを逡巡したタリムの心情をちゃんと見抜いていたのだ。やはり、ただの旅の楽師だというのは、この男の仮の姿であることは間違いなさそうだった。
「私が何者なのか、知りたくはないのか」
唐突に問われ、タリムは息を呑んだ。つと顔を上げれば、燃える炎を宿した男の瞳が間近にあった。
この男には、自分の考えていることが読まれてしまう。タリムは内心、焦りを覚えた。
「いや、そなたの心の内を言ったまでのことだ。どうも、私の言葉は、どこまでが冗談でどこまでが本気か判らないようだ。悪気はないのだが、相手には侮られていると勘違いされてしまうらしい。それで、大方、ご婦人方にも警戒され、嫌われてしまうのだろう」
軽い揶揄を含んだような男の言葉に、タリムは俯いた。男はそんな彼女に頓着もせず、淡々と続けた。
「私が君の故郷を滅ぼした敵国の男だと知れば、どうする?」
その物言いがあまりにもなにげないものだったので、タリムは一瞬、我が耳を疑ったほどであった。
タリムの印象的な眼が男を射るように見つめた。男はその視線を逸らすこともなく、受け止めた。
「それは―」
嘘だろうと言いかけて、タリムは言葉を呑み込んだ。無意識の中に視線が動く。旅の吟遊詩人にはふさわしからぬ逞しい手、武人のような精悍な躰つき。
「偽りではない、真のことだ」
空しく消えた言葉を、あっさりと男は口にした。
「―」
タリムは急速に乾いてきた唇をしきりに舐めた。かすかに血の味がするのは、自分でも知らず唇を噛みしめているからだろうか。
「あなたは、私を馬鹿にしているの?」
さもなければ、何だというのだろう、たかが女一人だと侮って、咄嗟には何の仕返しもできぬと、そんなことを平気で言ってのけるに相違なかった。
「いや、馬鹿になどはしていない」
だが、眼の前の男は、少しも悪びれる風もなく言ってのける。
「彼(か)の国の王の一人娘タリム姫は砂漠の花と謳われるほどに、美しく気高い姫だと聞いている。君を見た時、すぐにタリム姫だと判った」
男の言葉が皆まで終わらない中、タリムは男に飛びかかっていた。懐から出した懐剣を両手に握りしめ、渾身に力を込めて男に向かっていったのだ。
しかし、生命がけの一撃もあっさりと男にかわされた。タリムは一瞬の中に男の逞しい腕に抱き込まれ、逆に細腕をねじ上げられる形になってしまった。
「何故、殺した? 罪なき人々を巻き添えにした?」
タリムの瞳に涙が溢れた。無念だった。ここで、この尊大で恥知らずの男を殺す―、いや、相打ちになっても、それで本望だったというのに、自分はあまりにも非力すぎた。男を殺すどころか、自分の息の根を止められてしまうことになるとは!
「いや国を滅ぼしたのは、そなただ、タリム姫」
男は姫の手を掴んだまま、無表情に言った。
「私が何をした!」
男に掴まれた手首が熱と痛みを帯びている。タリムは痛みに顔をしかめた。それを見た男が力を緩めたのか、手首がわずかに楽になった。
「そなたさえ、ハーンの求めに応じれば、そなたの父も民も死ぬることはなかったはずだ」
男は相変わらず何の感情も感じさせない、抑揚のない調子で言う。先刻までのおどけたような男とは別人と化していた。
「では、私が蛮族の長の妾となれば、それで良かったと申すのか!?」
タリムが悲痛な響きを伴った声で叫んだ。
「いや」
男は小さく首を振ると、思いもかけぬほどすんなりと、タリムの手を乱暴に放した。
その弾みで、タリムの躰は少し後方へと投げだされた。タリムが地に手を突いて起き上がろうとしていると、男が手を出した。が、タリムは助けなど要らないと片手で手を振って、意思表示をした。
男もそれ以上、タリムに構おうとはせず、起き上がるタリムをただ見守っていた。
「私は、そなが犠牲になれば良かったとは言ってはいない。ただ、そなたの国が滅びたことは致し方のなかったと申したまでのこと」
「―」
タリムは何か言おうとして、花のような愛らしい唇を小刻みに震わせた。
「私は卑怯な人間です、私のために、大勢の人々を犠牲にしてしまった。あなたの言うとおり、私がハーンの言うなりにモンゴルへゆけば、国が滅ぼされることはなかった」
そんなタリムから、男はそっと眼を逸らした。
作品名:砂漠の月、星の姫~road to East~ 作家名:東 めぐみ