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砂漠の月、星の姫~road to East~

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 リーラの実は殻を割ると、中からとろりとした白い液体状のものが出てくる。それを吸うと、甘酸っぱい濃厚なヨーグルトのような食感がある。栄養も豊富で、普段の食卓ではデザートとして好まれ、時には砂漠の非常食としても重宝されるのだ。
「気づかなかったのか? ここにたくさんなっている」
 男の言葉にふと頭上を振り仰げば、リーラの樹には数個の実がついていた。先刻見たときには判らなかったけれど、どうやら、実の他に花も幾つか咲いているようだ。
「暗くて良く判らなかったのです」
 小さい声で呟くと、納得したのかしないのか、男はタリムに倣って上を見て言った。
「月が出ているな」
 なるほど、紺碧の夜空には無数の星が瞬き、銀の三日月が浮かんでいた。こんな明るい月夜にリーラの花や実が見えないのはおかしいはずなのだが、男に対して身構えているタリムは気が動転していて、それどころではなかった。
 しかし、男はそれ以上追及することもせず、布袋から今度は干した動物の肉を出し、それを火にあぶってタリムに食べろと勧めた。どうやら男に悪気はなさそうなのがタリムにも判ってきたので、タリムはその好意をありがたく受け取ることにした。これから先、いつまで続くか判らぬ旅である。しかも、タリムはここで水を補給した後、何の食糧も持ち合わせていないのだ。
 タリムはそっと髪に手をやった。結い上げた艶やかな髪にリーラの花を象った髪飾りが一つ挿してある。これとわずかな食糧を交換して欲しいと男に取引を申し出ることもできた。が、これは、永遠の別離を告げた恋人の形見の品でもある。そんな大切な品を一時の飢えをしのぐ食べ物と代えるわけにはゆかない。
 しかし、砂漠で何の食糧も持たず旅を続けることは、死を意味している。自分に生きよと言い続けた恋人は、何を望むだろうか。タリムが考えに耽っていると、男が言った。
「熱い中に食べた方が良い」
 タリムは我に返った。気が付けば、男の砂漠を支配する夜を集めたような黒い瞳がタリムを真っ直ぐに見据えていた。
―この男はただ者ではない。
 タリムの中に再び忘れかけていた緊張が呼び戻された。ただの旅人がここまでの圧倒的な存在感と威圧感を持っているはずがない。加えて、この武器を持つに相応しい手―。
 この男は一体何者なのか。
 タリムが息を呑み込んだ時、男がその場にはおよそ似つかわしくない呑気な声で言った。
「ここは国境だな」
 タリムはハッとした。そうだ、忘れていた、地図にも載らないような小さな小さなオアシスはまた、姫の生まれ育った国の最果てでもあったのだと。
 タリムは溜め息をついた。彼女はここから先、一体何があるのかを知らない。ただ幼い時から、国の最果てには小さな泉があり、その更に向こうは東、つまり姫たちの国の民が信ずる太陽の神がいるのだと信じて育ってきた。
 タリムは俯いた。蒼い水は風に揺らぐこともなく、漣(さざなみ)一つ立てることなく、鏡のように凪いでいる。砂漠の夜は寒く、タリムも男も毛皮の上着を羽織って燃えさかるたき火の傍にいても、なお砂漠の夜の寒さが身に滲みた。
 鏡のように澄んだ水面は、銀に輝く眉月を映している。タリムは、その水面の月を黙って見ていた。
 タリムの心を言い知れぬ虚しさと寂寥感が襲っていた。国を後にして初めて芽生えた感情でもあった。落城寸前のところを逃れ、国を落ち延びてからというもの、ただひたすら生きることだけを考えてきた。亡き恋人との約束を守り、ただ生命ある限り生きるのだと自分に言い聞かせ、熱砂の砂漠を歩き続けてきたのだ。
 だが、果たして、生きることに何の意味があるのだろうという疑問が、タリムの心に生まれていた。国すら滅ぼされ、追われながら生きる身に、何の意味があるのだろう?幸いにも、ここまではモンゴルの追っ手は来なかった。しかし、夜盗や獣を怖れ、死の砂漠をひたすらゆくことに、何の意味がある―?
 たとえモンゴル兵に捕まらなかったとしても、タリムが一人で生きてゆくには何の寄る辺もなさすぎた。行く当てもない女には死しか道は残されてはいないのではないだろうか。時には生きるより死ぬ方が楽なこともあるものだ。
「一つ、訊ねたいのだが」
 唐突に物想いを破られ、タリムは面を上げた。見れば、男がまだこちらを見つめている。しかし、先刻感じたような鋭い光はなく、優しげな眼差しがタリムに向けられていた。そのことに、どこかでホッとしながら、タリムは小首を傾げた。
「君は何者なのだ」
 それは、タリムこそが眼の前の男に向けたい言葉であった。しかし、男の質問は間違いなくタリムの方に向けられていた。タリムはもう一度、男の眼を見た。凪いだ湖面(オアシス)のように穏やかだけれども、しんと張りつめた双眸は、タリムに応えを促している。
 タリムはその瞳からそっと眼を逸らし、水面に視線を移した。オアシスの水は相変わらず銀に輝く月を映し、細い月はまるで湖面に縫い止められたかのように身じろぎもしない。
 自分が亡国の姫であること、最後の生き残りの身であることを、到底告げられるものではなかった。タリムがなおも沈黙を守っていると、男の静かな声が響いた。
「応えたくないのなら、無理に応えなくても良い。言いたくないことを無理に聞き出すほど、俺も野暮じゃない。君みたいな綺麗な娘がたった一人でこんな物騒な砂漠を旅してるからには相応の理由(わけ)や事情ってものがあるに違いない。まァ、この広い砂漠を行き交う旅人は皆、それなりの事情ってものがあるからな」
男が何者かは判らないが、今は深くは詮索しようとはせぬその態度がありがたかった。 それから、男は竪琴をひとしきり弾く。満更、吟遊詩人だと称する男の言葉が嘘ではあるまいと一瞬思ってしまうほどの見事な音色であった。
「この曲を知っているか」
 男が問うので、タリムは黙って小さく首を振った。
「国境の月」
 男の応えに、タリムは眼を瞠った。その表情を楽しむように眺めながら、男が声を上げて笑った。笑うと、瞳の奥の鋭さが消え、一瞬、少年のような無邪気な顔になる。こんな顔もできるのだと、タリムは屈託ない男の笑顔を見ながら、ぼんやりと思った。
「いや、済まない。からかっているつもりはないんだ。ただ、月があまりにもきれいで、その月を見ている君がまた美しいので、思わずそんな言葉が口から出てしまった。聞いたことがないのも無理はない、私が即興で、今、ここで創ったのだから」
「素敵な曲」
 タリムが呟くと、男は満足げに頷いた。
 再び、男が竪琴をつまびく。男の指が次々と魔法のように動いて、曲を奏でる。もの哀しくも美しい曲だった。心の奥底まで届くような、心の襞(ひだ)を震わせるような哀切な美しい調べが夜の凍てついた砂漠の夜気に儚く溶け、散ってゆく。
 眼を閉じて、じっと耳を傾けていると、まるで優しい子守唄を聞いているかのような安らいだ心持ちになれる。そう、幼い日、乳母が眠りにつく前に聞かせてくれた、あの懐かしい唄だ。