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砂漠の月、星の姫~road to East~

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 唇を噛みしめ、彼女は、はるか彼方を見つめた。砂漠の向こうには一体どのような運命が待ち受けているのか。今日、最初の陽の光が彼女の端整な横顔をくっきりと照らしだす。
 夜が明けたのだ。彼女はゆっくりと東へと向かって進んでいった。その後ろ姿は、やがてすぐに遠くなり見えなくなった。
 その夜、この辺りでも滅多と起きないほどの大きな砂嵐が起き、滅びの町と化したこの国は一瞬にして砂に呑み込まれた。後にはただ砂漠がひろがるばかりで、ここに小さいけれど高い文明と繁栄を誇った国があったとは到底信じられない有り様だった。この国を攻めたチンギス・ハーンは自らが率いたモンゴル全軍に触れを出した。
 この怪異は恐らく亡国の王の呪いか、さもなくば、神の怒りに違いない、されば、この国のこと、この国と我が国との拘わりはすべてをこの砂の海に捨ててしまえ、皆、忘れるのだ、と。
 その後、モンゴルの歴史書にも、この戦について記されることは決してなかったのである。また、国を落ち延びたタリム姫がその後、いかなる運命を辿ったのか誰も知らない。


 光香子は、ゆっくりと眼を見開いた。生まれたばかりの太陽が真っ直ぐに光香子の顔を照らしていた。思わず眩しさに眼を閉じ、再び、そっと開く。感じるのは砂のざらついた感触ではなく、糊のよくきいた清潔なシーツの肌触りである。そこで、昨夜の記憶が一挙に溢れ出し、光香子は慌てて身を起こした。
 自分は昨夜、確かに砂漠へと一人出かけたはずだった。むろん、死を覚悟しての無謀な行為であった。なのに、今、光香子は確かに宿泊していたホテルのベッドにいる。これは一体、どうしたことだろうか。
 夜の砂漠に倒れ伏し、意識を手放したところまでは、はっきりと憶えているのだが、それから先のことは一切記憶に残ってはいない。着ていた服は昨夜と全く同じで、白いコットンのワンピースだけだ。よくよく見れば、服のあちこちに乾いた砂がついている。
 どうやら、自分が夕べ砂漠にいたのは事実のようであった。戸惑った末、光香子はシャワーを浴びて躰の砂埃を洗い流し、木綿のシャツとスカートに着替えると、階下のフロントへと降りていった。
 見覚えのある顔があり、何故か光香子はホッとした。昨日、チェック・インしたときに笑顔で対応してくれたフロント・マンがいる。まだ早朝のせいか、ロビーは閑散としており、人影は見当たらなかった。
 彼は光香子に気づくと、やはり柔らかな笑みを浮かべて、軽く会釈した。
「おはようございます。昨夜はよくお寝みになれましたか」
 愛想良く訊ねる彼に、光香子は昨夜、自分が出かけなかったかどうか、いつ頃ホテルにどうして戻ってきたのかを訊ねた。すると、彼は一瞬、怪訝な顔になったものの、すぐに笑顔で応えた。
「そうですね、確かに昨夜遅くにおひとりでお出かけになられましたよ。戻られたのは一時間後くらいでしたか、私がおやすみなさいませと申し上げたら、変わらないご様子でご挨拶なさってエレベーターに乗り込まれましたが」
「―」
 光香子は絶句した。彼の言葉によれば、光香子が昨夜、一人で砂漠に出かけたのは間違いないらしいが、その後、再び一人で戻ってきたというのだ。しかも、何事もなかったかのように平然とした様子で!!
 問題なのは、光香子の記憶にホテルへ戻ってきたときのことが何もないということであった。
―私は自分では何も判らない状態でありながら、いつもと変わりなくホテルまで歩いて帰り、部屋へと戻ったんだわ。
 それは、気味が悪いというよりは、奇蹟に近いことだった。夜の砂漠に倒れ伏し、なおかつ、正気を失いながら生きて帰ったとは、まさに信じられないことである。
 そうなのだ、光香子はひとたびは死のうと思い立ち、砂漠へと向かった。淳一との別離が彼女の予想以上に光香子の心を苛んでいた。自分から別れを切り出しておきながら、光香子はいまだに失った恋人の面影から逃れられないでいたのだ。
 砂漠で死のうと一人で出かけたのだが、不思議なことに、光香子は一人でホテルへと戻り、今、ここにうして生きている。だが、光香子はそのことに哀しみも感じなかった。いや、むしろ、生命を長らえたことに一抹の安堵と大きな歓びを感じていた。
 そして、もし、自分が望みどおり、あのまま砂漠で息絶えていたらと想像して、ゾッとした。今の光香子には、そのこと自体も不思議に思える。何故、自分は砂漠で死ねなかったことを残念に思えないのだろう?
 その疑問に対する応えは出せないままであったけれど、光香子の中にはこの国を訪れた直後のような喪失感も虚無感もなかった。
 光香子はルームサービスで急いでパンとコーヒー、スクランブル・エッグ、フルーツの簡単な朝食を済ませ、何ものかにせき立てられるかのように、再び砂漠へと出かけた。深い哀しみと虚しさの代わりに今、彼女を支配している感情は何なのだろうか、それは彼女自身にも判らない。
 しかし、誰かがしきりに自分を呼んでいるような気がしてならなかった。
 ホテルのすぐ裏手から灼熱の砂漠が果てなく続いている。明けたばかりとはいえ、夜とはうってかわって、熱い陽の光がはや容赦なく乾いた砂漠に照りつけていた。一面にどこまでもひろがる砂漠は砂の海のようにも見える。光香子は眩しい陽光に眼を細めながら、背伸びをするように地平線の彼方を見つめた。
 その時、突如として、誰かの声が耳奥で響いた。
―どうか、姫よ。生きて下さい。私のためにも生きて―幸せな一生をお過ごし下さい。
 光香子は懸命に何かを思い出そうとした。自分は何か大切なことを、いや、大切なひとのことを忘れてはいないだろうか。と、唐突に、意識の底から記憶がぽっかりと浮かび上がった。
 そう、自分には大切に想うひとがいた。それは淳一ではなく、もっと別の男性だった。
―フィーロ様。
 かつての、はるか昔に別れた恋人の名を唇が刻もうとして、それは低い嗚咽に代わった。 光香子の眼に大粒の涙が溢れた。
―生きて下さい。
 恋人の別れ際の台詞が耳奥に残り、幾度も蘇った。
 光香子はスカートのポケットから一枚の写真を取り出した。その小さな写真の中で淳一と光香子が笑っている。光香子はその一枚の紙切れをそっと破いた。破いた写真は無数の塵となって宙に舞い踊り、やがて、乾いた風に運ばれて見えなくなった。
「もう一度、生きて―」
 光香子は、はるか東方を見つめて、そっと呟いた。この国に昔から伝わる火の鳥伝説、かの不死鳥は確かに異邦人の光香子に一瞬の奇蹟を見せてくれた。
 昨夜、光香子が砂漠で見たひとときの幻影は、単なる夢にすぎないのか、それとも、かつてここに栄えた王国の最後の姫の哀しき記憶なのか、それは誰にも判らない。光香子がタリム姫の生まれ変わりだったというよりは、死を覚悟した光香子の願いと亡国の姫の懸命な祈りが時を越え、互いに共鳴し合ったのかもしれない。
 いずれにしろ、いにしえから息づく火の鳥伝説は、今もなおこの砂漠の国の人々の間に深く根付いている。旅行前に読んだガイドブックにも書いてあったことを、光香子は思い出していた。