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砂漠の月、星の姫~road to East~

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 だが、今、タリム姫と同化した光香子の中にはこの悲劇の王国が辿った最後が紛うことなく再現されようとしていた。美貌で名高い姫を妾妃に差し出すようにと命じられ、誇り高い父は激怒した。玉を加工する技術はむろん、可愛い愛娘を何でむざと騎馬民族の野蛮な男にくれてやろうかと、王は怒り、ハーンにきっぱりと断りの使者を送った。
 ハーンは待っていたように大軍を率いてこの国に向かった。大軍に攻められた小さな国はひとたまりもなかった。高い文化と技術を誇り、繁栄を極めていたかに見えた国も、どこの国にでもあるように、内実は退廃が進んでいたのだ。ましてや、戦なぞ国始まって以来のことだった。
 軍隊すらろくに持たぬ国がどうして、あの勇猛果敢なハーンの大軍と互角に戦えよう。開戦と同時に瞬く間にモンゴル兵に踏み込まれ、町はことごとく占領された。敵国の兵士が溢れ返る町をタリムは王宮の二階から哀しく見つめるしかなかった。
―姫、生きて囚われの身となり辱めを受けるよりは、潔く自らの生命を絶つが良い。
 父はそう言って、剣で喉を突いて亡くなった。もちろん、タリムとて、最初から己れだけ生き延びるつもりは毛頭なかった。捕虜となった敵国の女がどのような扱いを受けるか、知らぬ彼女ではなかった。ましてや、ハーンは姫を後宮にと望んでいたほどなのだ。もし姫がを生きて捕らえられれば、姫の身はハーンに穢されることになるだろう。
―もう一度だけ、フィーロ様にお逢いしたい。
 タリムの最後の願いはただ一つ、それのみであった。幼い時から、共に歩むならこのひとと一途に恋い慕った、たった一人の男性なのだ。
 タリムは血塗れになって横たわる国王の変わり果てた姿をぼんやりと見つめた。この国に昔から語り継がれている伝説がふと脳裡に浮かんだ。一生に一度だけ心から願えば、その望みを叶えてくれるという紅い鳥、火の鳥。―どうか、お願い、私をフィーロ様に逢わせて。
 フィーロは今、この国の軍を率いて前線で戦っているはずだ、既に万が一のときのことを覚悟して、別れの盃も交わして、彼は出陣していったのだ。今更、こんな場所で逢えるはずもなかった。タリムがそっと首を振って、諦めの吐息をついたその時、固く閉ざされたはずの王宮の間の扉が開いたのだ。
―姫。
 姿を見せた婚約者に駆け寄り、タリムは抱きついた。フィーロのマントも戦用の胴衣も血だらけであったが、幸いにも、彼はたいした傷は受けてはいなかった。その逞しい手でタリムの華奢な躰をしっかりと抱きしめ、フィーロは深い、いつもの穏やかな彼らしい声で言った。
―フィーロ様、何故、ここに?
 愛する男の腕の中で恋人の顔を見上げて訊ねると、彼は言った。この国の軍隊は壊滅状態となり、兵も殆どが討ち死にし、ある者は敵に投降した。自分もひとたびは死を覚悟したが、生命からがらここまで逃れてきたのは、
ひとえに姫に逢いたかったからだと。
 ああ、火の鳥が私の願いを聞き入れてくれたのだと、タリムは心の内で神に感謝の祈りを捧げた。
―私はどうしても姫に伝えたいことがあって参ったのです。
 フィーロはタリムのやわらかな長い髪を撫でながら言った。姫の結い上げた艶やかな髪には翡翠を連ねた見事な髪飾りが輝いている。それは、かつてフィーロが姫に愛のあかしとして贈ったものだった。小さな花をかたどったそれは、姫の美しさと愛らしさを同時によく引き立てている。
 小首を傾げるタリムは聡明な内面と臈長けた美貌とは裏腹に、時折、ふと童女のような無邪気な表情を見せた。フィーロは彼女のそんなあどけない一瞬の顔を見るのが好きだった。
―たとえ誰が何と言おうと、姫、あなたは、どうか生きて下さい。
 フィーロの言葉に、タリムは息を呑んだ。彼女に生きろと言うフィーロの意図が計りかねたのだ。彼女がもし生きて囚われれば、どうなるか判りすぎるほど判っているはずではないのか。が、婚約者は真顔で首を振った。
―願いなさい、神に祈るのです。そうすれば、神はきっとあなたの願いを聞き届けて下さる。私には判る。あなたはきっと敵兵に見つらずに逃げ延びることができる。ここで死んでも、何も残らない。生命を無駄にしないで。どうか、姫よ、生きて下さい、私のためにも生きて―幸せな一生をお過ごし下さい。
 タリムの心に愛する男の心が痛いほど伝わってきた。彼は生きろと言っているのだ。すべてを諦めてここで果てるより、逃げてどこまでも逃げて生きよと言っている。それは恐らく、自分と共に死んでくれと言うより彼には辛いことに相違ない。
―どうか、姫、お元気で。姫がどこにいても、私は姫の幸せを心より願っています。
 フィーロの唇を受け止めるタリムの瞳に大粒の涙が溢れた。その澄んだ涙を人差し指でぬぐってやり、フィーロはもう一度、姫の額に軽く口づけた。
―フィーロ様もお元気で。
 震える声で言ったタリムだったが、彼が自分を逃がした後、父王の後を追って、ここで自害して果てるつもりなのは判っていた。だが、今は何も知らない顔で出てゆくのが自分に出来る精一杯のことだと思っていた。
 離れがたい想いでフィーロから離れる。数歩あるいたところで振り返った時、タリムは確かに見た。文武両道に秀でたフィーロが泣いていたのだ。彼はタリムから少し離れた場所で、ひっそりと佇んでいた。その彼の陽に灼けた頬をひとすじの涙がつたい落ちていた。
 ああ、このひとは確かに自分を愛してくれていたのだと、タリムは心から思えた。何より、彼の心をこの涙が物語っていた。
―東へ行きます。
 タリムはフィーロを真っ直ぐに見つめて言った。何の当てもないけれど、陽の昇るという方角をを目指して進むつもりだった。考えてみれば、無謀で危険な賭けであった。何の準備もなく、そして、頼りない女が一人、砂漠を旅して生きてゆくというのだ。砂漠には盗賊や恐ろしい獣、それに乾きや砂嵐といった魔物が潜んでいる。タリムがすぐに死に至ったとしても、不思議ではない。
 それでも彼女は恋人の望みどおり、生きてみようと思った。生命尽きるその瞬間まで生きて生き抜いてみようとこの時、固く心に誓ったのだ。
―それは良い。東は我らの信ずる太陽神がおわすところ、東へ行けば、必ずや神のお恵みが姫のおん身にありましょう。
 フィーロがしっかりと頷く。タリムはもう一度彼にしがみつきたい衝動を懸命にこらえ、想いを断ち切るようにその場を立ち去った。
 昔から東の果てには神がいて、大いなる生命の恵みをもたらす河があると語り継がれていた。この国の人々はずっと前から太陽を唯一の神として信仰していたのだ。
 町外れでタリムは飼い主から離れた迷い駱駝を一頭手に入れた。夜明け前の町は既に完全に廃墟と化し、人の姿は殆ど見られなかった。息絶えた人々の屍が折り重なるようにして倒れ、家々は焼け、あるいは打ち壊され、無残な様相を呈していた。それはまさに滅びゆく国の有り様を表していた。
 タリムは駱駝に跨ると、一人砂漠へと出た。その小さな姿は砂の海に漂う小舟のようであった。
―何が待っているかは判らない。でも、生命の限り生きてみよう。