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砂漠の月、星の姫~road to East~

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 一歩、また一歩、歩き始めたばかりの幼子のように心許ない足取りで、光香子は進んでゆく。いかほど歩いただろうか、光香子の躰がふいにグラリと揺れた。躰ごと砂の海に倒れ込んでゆきながら、光香子が意識を手放す前、最後に見たものは、紅い鳥であった。
 大きな翼をいっぱいにひろげて、漆黒の夜空を星々の間を縫いながら天翔けてゆくのは―。
―あれは火の鳥。
 不死鳥とも呼ばれ、この国にはるかな昔から語り継がれているという炎の鳥。火の鳥は、一生に一度、その人の前に現れ、願いを叶えてくれるという。
―それならば、お願い、もう一度、淳ちゃんに逢わせて。
 愚かな願い、空しい望みだとは判っていた。とうに自分から心の離れた男に今一度逢いたいなどと願うのは、馬鹿なことだと判りすぎるくらい判っていた。だが、光香子は願わずにはおれなかったのだ。最後に一つくらい、我が儘を言っても神様は許してくれるのではないか。そんな風に思った。
 もっとも、この国の人々はいにしえからアッラーを信じているから、仏教徒の自分が願ったところで、叶うものかどうかは判らなかったが。この際、そんなことはどうでも良かった。
 もし、淳一に逢うことが許されないのならば、せめて安らかに死ねますようにと、光香子は願った。淳一と二人で来ようと約束していた砂漠で死ねるのなら、光香子は何も思い残すことはない。
―どうか、最期の瞬間(とき)を心安らかに迎えられますように。
 アッラーに祈ったのか、ブッダに祈ったのかは判らないが、とにかく光香子は願った。 その時、まばゆい光が閃いた。あまりの眩しさに、光香子は一瞬、手で顔を覆った。
 ああ、自分もいよいよ最期のときが来たのだと光香子は覚悟を決めた。と、光香子の耳に静かな声音が響いてきた。
―どうか、姫よ。生きて下さい。私のためにも生きて、幸せな一生をお過ごし下さい。
 深みのある低い穏やかな声。
 光香子は我が耳を疑った。いまわの際になって、幻聴が聞こえてきたのかと思ったほどだ。あまりにも強い執着や未練が淳一の声を聞かせたのかと。しかし、即座に違うと思った。この声は淳一のものではない。
 淳一は、こんな声ではなかった。耳奥に響いてくるのは、優しい―まるで、この声に耳を傾けていると、広く逞しい胸にゆったりと抱かれているような、そんな安心感に包まれる。深くて、優しい声だった。安堵して何もかもこの声の持ち主にゆだねてしまえば良いのだと思ってしまうほどの。
 しかし、そんな穏やかな気持ちは長くは続かなかった。突如として、胸を引き裂かれるような深くて激しい哀しみが光香子を襲った。
 気が付けば、光香子はどこかの城にいた。石造りの城は、土を塗り固めただけの簡素なものだったが、内部は極彩色に彩られ、その華やかさは光香子が眼を見開くほどであった。そこに、今、光香子は立っていた。
 ここは、そう、城の最奥部。王族にだけ許されたひときわ豪奢な一室である。その部屋で光香子は見知らぬ男と抱き合っていた。いや、このひとは―、知らないはずがない。この人こそ、今の自分、タリム姫の最愛の恋人ではないか。
 急激な速さで、光香子の、いやタリム姫の記憶が過去へと巻き戻されてゆく。ここは、今から千年以上も前に砂漠に栄えた王国、タリム姫はその最後の国王の最愛の一人娘だった。タリムは幼時に宰相の息子と婚約した。名宰相と謳われた婚約者の父は姫の伯父でもあった。即ち、宰相の妹が王に嫁ぎ、タリムが生まれたのだ。
 許婚者の名はフイーロといった。フィーロとタリムは物心つくかつかない中から共に王宮の庭で遊んだ。二人の恋は幼い頃からごく自然に育まれ、年頃になって燃え盛るような激しい情熱へと変わっていったのだ。
 何代も前の王の時代、忽然と砂漠に出現したこの謎の王国は、古代史においても未知のことが多い。かつてないほどの栄華と繁栄を誇っていたのに、なにゆえ突如として滅びたのか、この国を攻め滅ぼしたのは、あの元を興した偉大なるチンギス・ハーンだと云われている。草原を駆ける蒼き狼と呼ばれた不世出の英雄は、武力でもってこの国を支配しようとした。
 この国は古代から玉(ぎょく)の加工で名高かった。輸入した玉を素晴らしい技術で一流の宝飾品に仕上げる熟練した職人たちがあまた存在したのだ。ハーンはこの玉に眼をつけた。中でも翡翠の細工加工は当代随一と云われ、ハーンの数ある妃たちもこぞって彼にこの国の翡翠の首飾りや腕輪をねだったという。
 また、最後の国王の一人娘は、はるか彼方の元帝国にまで届くほどの佳人であった。ハーンはこの美貌で知られたタリム姫とこの国の高い水準を誇る技術を国王に要求したのだ。だが、王は頑として聞き入れなかった。草原の蒼き狼も、この砂漠の民にとっては単なる成り上がりの新興国の王、蛮族の長にすぎなかった。
 要求を拒絶されたハーンが大軍を率いてこの国を攻めようとしていた矢先、砂漠に砂嵐が起こった。大軍を率いたハーンの眼の前で、王国は砂塵の嵐に巻き込まれ、一瞬にしてその姿を消した。王宮を中心に建て並ぶ家々や商家、すべてのものがあっという間に砂の海の底に沈んだのだ。一寸先も見えないほどの砂嵐に、思わず眼を閉じたハーンは、後々激しく後悔したといわれる。
 何故、あの時、眼をしっかりと見開いて何が起こったのか見届けなかったのか。王国が砂嵐に呑み込まれて無くなってしまうなぞ、到底常識では考えられないことなのだ。だが、モンゴルの兵士たちの中には、実際に王宮や人々が悲鳴と怒号の中に砂の奥底へと引っ張られるように消えていったのを見た者がいた。
 そして、現実として、あれほどの人々や建物が瞬きも終わらない間にかき消すように姿を消したのだ。流石のハーンもこの怪異な現象を信じないわけにはいかなかった。以上が一般に広く知られているこの国の歴史だが、モンゴルの帝国史にはチンギス・ハーンが大軍を率いてこの国を攻めようとしたという記録は一切残されてはいない。ただ当時の歴史家の個人的な日記にほんの少し、ハーンがこの国の王の姫に求婚したことのみが記されているだけである。
 従って、元とチンギス・ハーン、それに、この国との拘わりが一体どのようなものであったのか、使者を送ったにすぎない程度だったのか、その滅亡と彼が関係しているのか、詳しいことは明らかではない。一説には、あまりに繁栄を誇り奢ったこの国の人々を憤った神がこの国を人馬もろともに砂漠へと沈めてしまったのだとも伝えられる。
 が、果たして、この国の人々が何の神を崇拝していたのかすら、今日に伝わっていないのだ。その存在を知らせる文献といえば、あくまでも後の歴史書―しかも正式に編纂された正史ではなく、歴史家が残した個人的な著書―に頼るしかないのが現状なのだから。一説にはイスラームの影響を多大に受けた文化を持ち、アッラーを唯一絶対神として信仰していたとも、また、アミニズム―万物に宿る自然の精霊を崇拝していたともいう。