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砂漠の月、星の姫~road to East~

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☆ 第一夜【砂漠へ〜road to Oasis】 ☆

―東方にある伝説あり。
かつて 砂漠に栄えし国を桃源郷(シャングリラ)と呼ぶ。彼(か)の国の姫君、砂漠に咲いた一輪の花の如く麗しく、恋に破れた乙女の流した涙、ひとしずく砂漠に落ち、やがて空に還る。暁の空に輝く一粒の宝石とならん、と。―


 空港に降り立った刹那、光香子(みかこ)は眼を細めた。眩しい灼熱の陽光が容赦なく双眸を射抜くように思え、一瞬、眼を閉じたほどであった。その時、自分は確かにはるかな異国へとやって来たのだと確信できた。
 ゆっくりと眼を開くと、聞き慣れぬ異国の言葉が飛び交い、人々の熱気と喧噪が満ちている周囲を見回す。あれは恋人同士だろうか、若い男女が駆け寄り、抱き合う。再会を歓び合っているのだろうか、若い女は泣いていた。彼女に男はそっと白いハンカチを差し出す。
 光香子はそんな微笑ましい光景からそっと眼を逸らす。自分にはもう、あんな甘やかで優しい瞬間は二度とないのだと自分に言い聞かせながら。
 賑やかな人声から逃れるように、光香子は表で順番待ちをしていたタクシーに乗り込み、宿泊先のホテルへと向かった。
 ホテルは二流といったところではあったが、それなりに快適な造りであった。部屋も決して広くはないけれど、アイボリーの清潔なシーツがかかったシングル・ベッドと籐製の椅子、丸い小さな机が備えられている。荷物を詰め込んだ大きなトランクを放り出し、ベッドに身を投げだすと、糊のきいたシーツのパリッとした感触が心地よく、光香子は思いきり手足を伸ばして、旅の疲れをしばし忘れた。
 夜になって、ルームサービスで簡単な夕食を頼み、部屋でゆっくりと食事を摂った。食後のコーヒーの代わりに、今夜だけと自分に言い訳をして、ワインを飲んだ。琥珀色のとろりとした液体がグラスで揺れている。光香子はグラスを片手に持ち、そのまるで血のような毒々しいまでの艶やかな色を見つめた。
―そう、こんな我が儘ができるのも今夜だけだから。
 そう言いながら、ひと息にワインを飲み干す。熱い塊が喉もとを通り過ぎる感覚があり、それが徐々に躰全体にひろがってゆく。まるで昼間空港で感じた太陽の熱さのようだと、光香子はぼんやりと思った。そのままユラリと立ち上がる。意思のないマリオネットのように、光香子はそのままふらふらと部屋の外へと出ていった。
 次に光香子が自分の置かれた状況を認識した時、彼女は砂の上に立っていた。夜明けにはまだ幾分間があるこの時刻、辺りは漆黒の闇に閉ざされている。だが、もし、彼女が頭上を振り仰げば、幾千、いや、幾億もの星たちがまるでダイヤモンドを連ねたごとく、瞬いているのを眼にすることができただろう。 しかし、彼女がその輝きを見ることはなかった。昼間、ホテルにチェック・インする時、フロントの若い男の従業員にさりげなく訊ねたら、彼は笑って首を振った。
―砂漠へ一人で行きたいですって? 馬鹿言っちゃあいけませんよ。いくら文明の発達した今でも、女が一人で、しかも外国人が砂漠へ行くなんて、死ににいくようなものですよ。 彼は、砂漠へ行くのだという光香子の言葉を冗談か何かだと思ったらしい。笑って、肩をすくめていた。
―そう言えば、あの若いフロントマンは淳ちゃんに似てたっけ。
 光香子がこの国の言葉を流暢に話すので、彼は少し驚いているようだった。
 ふと、そんなことを考える自分に、つくづく未練がましい女だと自分に嫌気が差す。そう、淳一との別離は他ならぬ自分が決めたことなのだ。
 もう一年近くも前から気づいていた。淳一に好きな女性ができていたことも、とっくに自分から彼の心が離れていたことも。彼とは学生時代からのつき合いだったから、気心も知れていた。だからこそ、判ったのだ。一緒にいても、彼はいつも上の空でいた。
 大学を卒業して五年、淳一との結婚を特に強く意識したことはない。むろん、一定の歳になってからは、自分はこのひとと結婚するのだと予感してはいた。いつしか自然に二人ともそういう気持ちになって、結ばれるのだと漠然と考えていた。
 互いに別々の職場にいても、週末に逢えば、その空白を埋めるだけの濃密な時間を持つことができた。いや、そう信じていたのは、やはり光香子だけだったのか。二十四才になる目前、淳一からのプロポーズを断った時、光香子は今の仕事が楽しくてならなかった。女性下着のカタログ販売を専門とする小さな会社ではあったが、光香子はデザイナーとして、それなりに重宝され、事実、活躍もしていたのだ。淳一から結婚しようと言われたのは、まさに仕事の楽しさが判りかけていた矢先のことだった。
 だが、淳一にとっては、そんなことは所詮、光香子の勝手な言い分にすぎないだろう。思えば、このときを境に、淳一の心は次第に光香子から離れ始めたのかもしれない。
―済まない。
 別れを切り出した時、淳一の瞳の奥にホッとしたような光がよぎったのを、光香子は確かに見た。
―他に好きな子ができたんでしょう。
 なるべく余裕の笑みを浮かべて言ったつもりだったが、実際にはどうだっただろうか。淳一は、それから滔々と今の彼女の話を始めた。相手は同じ職場の後輩だという。
―止めて、私の前で、そんな話をしないで。
 思わず耳を塞ぎたい衝動と共に、光香子は淳一がこんな無神経な男だったのかと改めて感じた。いや、もう捨てる女の前では、恥も何もないのだろう。万が一、嫌われても一向に差し支えないのだから。
 こういうのを感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)と人は呼ぶのだろう。淳一といつか新居を持つときのためにと、少しずつ貯めてきた貯金をすべて下ろして、旅行費用に当てた。光香子がそろそろ結婚を本気で考え始めた時、破局がやって来たというのは何とも皮肉なことであった。
 行く先は淳一と二人でいつか行こうと話していた中近東の小さな国を選んだ。狭い国土のほぼ半分以上を砂が占めるという歴史と砂漠の国。淳一と共に行くときのためにと、ひそかに語学講座にも通い、この国の言葉を勉強したりもしたのだ。だが、すべては空しい努力となった。
 光香子はわずかに瞬きをして、眼裏で涙を乾かした。夜になれば、砂漠は昼間の炎暑が嘘のように急激に冷える。光香子は薄いコットンのワンピースを一枚着たきりだった。ワインの酔いが冷めていくと共に、激しい冷気が押し寄せてくる。少しずつ躰から熱が失われてゆくのが自分でも判った。
 光香子は額に手をかざして、遠方を見ようとした。だが、眼の前にひろがるのは、ただ乾いた砂ばかりだ。しゃがみこんで、手のひらで砂を掬うと、さらさらと乾いた感触が掌(たなごころ)をくすぐる。砂はすぐに指の間から零れ落ち、なくなってしまった。
―ああ、この砂漠をあのひとにも見せたかった。
 淳一と並んで見るはずだった砂漠を、今、光香子はたった一人で眺めている。光香子の眼に再び熱いものが滲んだ。
 このまま歩いてゆけば、地の涯(はて)までたどり着くことができるのだろうか。光香子の中をそんな想いがよぎった。問いかけてみても、誰も応えてはくれない。言い知れぬ寂寥感が光香子を満たした。光香子の足が一歩踏み出す。素足にざらついた砂の感触を感じた。