和尚さんの法話 「地獄は存在する」
ところが、こんな難行苦行をしなければ救われないのかと、法然上人は疑問を感じて、何とか救われる道はないだろうかと、こんなことをせんならんのだったら、我々でも救われない、況や一般の人々は救われんじゃないかと疑問を抱いて、そしてたまたまいろんなお経を読み、論書を読みしてたところが、善導大師が中国で書いた書物が日本へ渡ってきて比叡山にあったんですね。それを読んでたら念仏で救われるということが書いた本だったんです。
あ、これでなければ自分のような罪の深い者は救われようがない。これだったら一般の者でも救われると。こういう気持ちになって、比叡山を下がって黒谷で念仏を広めて浄土宗を開いたんです。
法然上人は時代も国も違うけどもの凄く尊敬してたんですね。夢で善導大師と遭ったというところもありますね。それほど法然上人は善導大師を尊敬してたんですね。だから浄土宗ではお仏壇に善導大師と法然上人を奉るんです。
その三尊が現れたから、このお家は浄土宗だろうなと、和尚さんは想像したわけです。
しかしながら、それまでにご祈祷したのは浄土宗の人はその人ひとりだけと違うはずです。他にも大勢の浄土宗の人をご祈祷してるはずなんです。いろんな宗派の人がご祈祷に来ますからね。
そのなかで浄土宗の人も大勢来てるはずなんです。
ところがその時だけ、ご三尊が現れたんですから、そうするとそこの家に念仏の深い信仰を持ってる人が居なければならんと。極楽往生するほどの人がなけりゃならんと、思ったんです。
それでご祈祷が済んでから、ちょっとお伺いしますがお宅は何宗ですかと聞いたら、はい、浄土宗ですと。
そうですか。お宅にお念仏の信仰の深く持ったお方が何方かいらっしゃいますかと聞いたら、それは家の主人でございますと。即座に返事が返ってきた。
私等はとてもついていけませんと。
ついていけないというのは、難行苦行するんじゃないんですよね、お念仏の宗派は。
この宗派は、難行苦行が出来ないからというので法然上人は黒谷へ下がってきたんですからね。
念仏を称えると、その念仏の功徳によって阿弥陀様に救うて戴くという宗派なんです。
だから念仏を称える。それがそのしょっちゅう念仏を称えるんですね、その主人は。
いつ見ても念仏を称えてるんです。よくもまあ、あんなに念仏を称えたものだと。とても私等にはついていけませんと。
それで主人は、おまえもちっとは念仏を称えよと、極楽へ往生できんぞ、と言われて称えるんだけれども、忘れてしまうんですね。それは信仰が無いから。
主人はもう深い信仰を持ってたから絶えず念仏を称えたんですね。
いつ死んでも極楽へ往生させていただけるようにと、いうことですよ。
それが阿弥陀様のお心に叶ったということです。
「極楽は往き易すくして人無し」という言葉があるんですが、極楽は往き易いんです。念仏さえ称えてたらいいんですからね。
ところが往く人が無い。
問題は信仰なんですね。
もうひとつは、和尚さんのお寺の近所のお寺なんですが、そこの寺のご住職が亡くなったんですね。
その頃は、和尚さんは今のお寺へ行って間もない頃だったので、そこのご住職のことを知りませんでした。
それでお葬式に行って拝んでいると、御棺の上に阿弥陀様がぱーっとお立ちになったんです。
それで、ここの和尚さんは極楽往生なすった人やな、と思ったそうです。
自分の寺に帰ってきて住職のことを年寄りに聞いてみたけど、深い付き合いがないので詳しく知らないという。
それで他の人に聞いてみますと、すぐに返事が返ってきて、あのご住職はいい人でした。と言いました。
昔、そのお寺の本堂が火事になったらしくて、それでご本尊が焼けてしまうというので、持ち出すにも間に合わない。仏様を焼いてしまうというので、申し訳無いというので、自分も一緒に死のうというので仏様に抱きついていたというのです。
それで消防が間に合ったんですね、それで住職を助け出したんですけど、普通だったら仏像だから焼けたらまた作ったらいいというようなものでしょうけど、その住職にしたらそれは生き仏さんなんですね。
だからその生き仏さんを燃やしてしまったとなったら自分も責任上耐えられないというので、阿弥陀様と一緒に死ぬと言うて抱きついてたんです。
これは、ちょっと出来ないことだと思いますね。
だからこのご住職は、極楽往生なさったと思うのです。
話のついでに言いますと、極楽へ往生する人というのは、難行苦行が要らんのですから、念仏さえ称えてたらいいわけなんです。
ただ問題は、これから息を引き取ると、臨終になって息を引き取るその瞬間まで念仏を称える事が出来ないと、往生は出来ないんですよ。たとえ十分でも五分でもいいわけで、今死んでいくというときに南無阿弥陀仏と称えて死んでいったらその人は往生できるということになってるんです。
ところが死ぬ瞬間に念仏を称えるということは、なかなかこれは、本当の信仰を持ってたら、今もう死ぬんだなあと思ったらお念仏を称えるんだけど、本当の信仰が無かったら念仏は出ませんわね。平素念仏を称えていてもね。
和尚さんの父親は平素念仏を称えていたけど、床へ寝付いてしまうと、ぱたっと念仏が出なくなったそうです。
それで和尚さんが、お父さん、極楽を信じられますかと聞いたら、半信半疑やな、と応えたそうです。
お父さんは日頃元気なときは念仏を称えていたけど、その念仏の功徳はあの世へ持っていきますから悪い所へは行っていないと思いますけど、極楽へ往生は出来ない。
極楽へ往生するのは、臨終のときのお念仏が大事なんですよ。
臨終の念仏だったらたとえ十遍でも一遍でも南無阿弥陀仏と称えて息絶えたら極楽へ往生できるんだと、阿弥陀様が誓ってくれてるんですよ。
だから極楽へ往生すると思うなら念仏を称えないといけませんね。
死ぬ瞬間に念仏を称えないとだめなんでね。そうすると信心決定と、決定的な念仏を持っていないと、そうはいかんのですね。
お父さんは、極楽は半信半疑やなと言うたから極楽へ往生してないと思うけど、ところがお爺さんは極楽へ往生したと思います。
お爺さんの話は以前にもお話してますので、今回はしませんが、極楽へ往生した人は、死後硬直が無いんですよ。
だからお父さんは硬直しましたけど、お爺さんは硬直しなかった。
お爺さんは、もう生きてるときと同じ状態で、手も足もぶらんぶらんに動いたそうです。
お爺さんを湯灌(ゆかん)した人は、この人は生きてる人みたいやなあと言うたそうです。
ですから皆さん、地獄も存在するし、極楽も存在しますからどうぞそれを信じて頂いて、昔の坊さんの説いたとうりなんですよ。
今の坊さんは信じないんですよね、極楽も地獄も信じない。これは情け無い話ですね。
ひとつ思い出したことがあるんですが、「倶生神」という神さんがあって、人間がこの世へ生まれてきたら両肩に乗ってる神さんなんですが、左の神さんは善いことを、どんな善いことをしても覚えてくれる神さんが左に。
右は悪いことをしたら、一切どんな悪いことをした行いも洩らさず覚えている神さんが、一緒にこの世へ生まれてきてるんです。
作品名:和尚さんの法話 「地獄は存在する」 作家名:みわ