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和尚さんの法話 「極楽は実在する」

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本当に極楽往生する人はですね、もう今から自分は死んでいくというときに南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を称えると、西の方の空から遥かに大光雲がぱーっと光明が照らしてくる。

大きな山のような光雲がこれから往生するという人を照らしてくれるというのです。
阿弥陀様から観音勢至いろんな菩薩方が阿弥陀様に一緒に付いて迎えに来てくれるのです。
そしてよく阿弥陀様を信じて、阿弥陀様の名を称えましたね、といって皆が誉めてくれるのです。

「遂に引接(じょう)し給いて金蓮台に坐せしめ」
金蓮台というのは阿弥陀様の蓮の花の中に台がありますね、その台に往生する人を乗せて、そして極楽へ行くのです。
金の蓮の台を持って迎えに来てくれるのです。
この蓮というのは泥の中にあるのですよね、泥の中から出てきて花が咲くのですよね。
それは我々凡夫が修行をしてだんだんと仏に成っていくというのにあわせて、凡夫が仏に成るのに似ているので、蓮の花というのを仏教では尊ぶわけです。
その蓮の花が咲いて、その中に台がありますね、その台に往生する人を乗せて極楽へいくのです。人間が乗るくらいですから大きな蓮ですね。

これは極楽へ往生する人のことを詩に作ってるんですが、お経の中に説いてあるから、それを詩に作ってあるのですね。これはみな極楽の存在を説いてるんですよね。


四、「往生浄土」とは古来「捨此往彼」などと云う言葉で説明せられている。 それは此の現実の苦悩に満ちた世界を捨て、彼の清浄な極楽世界へ生まれると云う意味である。 ところで従来かかる浄土は、先ず空間的には西方十万億土の彼方に有って、我々が其処へ生まれて行く世界として説かれている。 十万億土の隔たりが決して数量的な隔たりではなく、日常性からの超越的意味である事は云う迄もない。 我々の魂が本来それと不可分的に根源的に関わりを持たねばならぬ所の、絶対的な精神的な空間なのである。 我々は捨此往彼と云う事に依って、歴史的現実を捨て、非歴史的な浄土へ往くだけだとすれば、浄土教は、其の限りでは現実的には何の働きも為し得ず、現在世界に於ける存在意義は持ち得なくなるであろう。

                     ― 在る浄土宗の僧侶 ―



これは在る浄土宗の坊さんが書いたものを抜き取ったものです。

「往生浄土」とは古来「捨此往彼」などと云う言葉で説明せられている。 
それは此の現実の苦悩に満ちた世界を捨て、彼の清浄な極楽世界へ生まれると云う意味である。
これはこのとおりですね。
ところがこの人はこれを信じられないのですね、この坊さんは。

お経には、西方十万億土の彼方に有って、我々が其処へ生まれて行く世界として説かれているわけなんです。
ところがこの坊さんは、そうじゃないんだというのです。

「十万億土の隔たりが決して数量的な隔たりではなく、日常性からの超越的意味である事は云う迄もない。」
と、こういうわけです。
汚い心が綺麗な心に変わっていくというような意味にとっているのですね、この坊さんは。
日常的というのはそういうことですね。
日常の行いによって心が変化すると。
十万億のその向こうに浄土があるんだという意味ではないんだと、この坊さんはいうわけです。
こういう考えの坊さんが大勢あるのです。
死後に極楽へいくのなら日常の我々にはなにもなっていないと、この坊さんはいうわけです。
死後を認めていないわけですね。
今現在、生きてる間の精神的な心の変化をいうのだというわけです。

昔の一休さんという坊さんも極楽を信じていなかったですね。
ある人が一休さんに地獄、極楽はあるのですかと聞きましたら、そりゃあるというわけです。
地獄とはどういうところですかと聞くと、おのれ無礼者をいって刀を抜いて切ろうとするじゃろ、もしもその刀で切ったならばそれは地獄だと説明するわけです。
そうですか、よく分かりましたというと、そこが極楽じゃというわけです。
一休さんという人は人気はありますが悟っていなかった。
地獄を信じていなかったですね。
死ぬときに死にとうない。死にとうないというて死んでいったそうですね。

兎に角、この浄土宗の坊さんは、十万億を過ぎていくのではないんだと、日常に綺麗な心に変わっていくのが極楽なんだと、こういうふうな解釈をしてるんですね。


五、第一、仏教は、人間の死後を説くものであってはならないし、又死後とは全く無関係の教えである。 「即得往生」の浄土の世界に死後が有っては大変であろう。

                     ― 浄土真宗在家の教師 ―



これも同じですね。死後の世界を信じていませんね。
仏教は死後の世界を説いてるんですよ。死後の世界があるんだぞと、お釈迦様が説いてるんです。

「即得往生」というのは、息を引き取ってすぐを即得往生というのです。
息を引き取ると同時に極楽へ往生する。
この即得往生の世界に死後の世界があってはならないと、なんということをいうのでしょうね。死後があっては大変だと。こんなに言う人がたくさんあるんですよね。


六、十方に浄土多けれど、西方を願うは十悪五逆の衆生の生まるるが故なり。

                     ― 法然法語 ―


これは法然上人のお言葉です。法然上人は、私は西方を願うんだ、十方にはたくさんの浄土がある。東西南北上下。この宇宙には無数の浄土があるんだけれども、私は西方を願うんだと。
その西方を願うのは、十悪五逆の衆生の生まれる故なり、と。
十悪五逆というのはもう大変な罪を犯した人ですね。
その罪の人も西方を願う人は皆救われるのです。どんな罪があっても救われるのです。

ただし、信仰ですね。信仰というのは、絶えずお念仏を称える。
特にこれから息を引き取るというときにお念仏を称える。
そのお念仏の力で極楽へ往生させて頂けるのです。
だから法然上人は私のような凡夫でも極楽へ往生できるんだということを言っているのですね。
これはもうこのとうりですね。


七、現世の結縁は後生の為にて候えば、浄土の再会疑い有るべからず。

                     ― 一遍法語 ―


この世で同じように信仰を持っていたら、後生は必ず極楽でお会いできるという言葉ですね。
誰の歌か分かりませんが、こういう歌がありますね。先立たば、(自分が先に死んでいく)蓮の台で待っていると。
兎に角、自分が先に死んだら蓮の台の半分を開けて待っているという歌があるのです。
これはそういうことを信じている和尚さんですね。

一蓮托生という言葉がございますね、これは普通は一人が蓮へ乗って極楽へ往生するのですが、一緒に二人一緒に蓮へ乗って極楽へ往生したいということですね。
昔は男女が一緒に自殺をするとき一蓮托生南無阿弥陀仏といって飛び込んだという話がありますね。
一蓮托生は、普通は一人の人がひとつの蓮へ乗って極楽へ往生するのですが、仲の良い人が二人乗って往生するということです。
昔の人はあの世を信じていたんですね。