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和尚さんの法話 「極楽は実在する」

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極楽は実在するというお話でございますが、そんなことはあたりまえだと思う人もいると思うのですが、今の坊さんがあの世を信じなくなって、信じる人が非常に少ない。
半数以上の人は認めていないですね。

そういうことで、いっぺん皆さんのお寺の和尚さんに聞いてみてください。
あの世は存在しますか、極楽は存在しますか、地獄は存在しますかと、いうことをいっぺんお尋ねになってみてください。
それは分からんとか、そんなものは無いと言ったら、その人に付いていくことはないと思います。

仏教というのは、死後の世界を前提に説いてあるのであって、生きている者のための教えではないのですよ。
生き方を決めるのは、死後の世界があるから、この世はこういうふうに生きなきゃならんということにはなりますけれども、あの世は無いということは一言もおっしゃっていません。

ところが仏教学者にしましても、坊さんにしましても、お釈迦様はあの世を説いていないと、はっきりこういうことを言う人があるのです。
これはとんでもない間違いですね。


一、是の如く我聞く。 一時、仏、舎衛国の祇樹給狐独園にましましき。大比丘衆千二
百五十人と倶なり。 皆これ大阿羅漢なり。 衆に知識せられたり。 長老舎利弗、摩訶目揵連 、摩訶迦葉、摩訶迦旃延 、摩訶倶希羅、離婆多、周利槃陀伽、難陀、阿難
陀、羅候羅、憍梵波提(きょうぼんはだい)、鬢頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)、迦留陀夷、摩訶劫賓那、薄拘羅、阿免楼駄(あぬるだ)、是の如き等の諸の大弟子なり。 
―― 其の時仏、長老舎利弗に告げ給わく。 是より西方、十万億土の仏土を過ぎて世
界有り、名付けて極楽という。 其の土に仏まします、阿弥陀と号す。 今、現にましまして説法し給う ――。
                    ― 仏説阿弥陀経 ―



仏教には如是我聞、各の如く我聞くと、こういう文が初めに出てくるのです。
それがなにかといいますと、お経をお経として作り上げたのはお釈迦様じゃないんですね。
お弟子さんたちが、私はこのように聞きましたと、後に作っていったもので、お釈迦様が筆をとって書いたものじゃないのです。
弟子が聞いたとうりに文字にしたものですから、各の如き我聞くと、必ずお経の初めに如是我聞という文句があるのです。

舎衛国というのは、日本でいうなら県とか市とかいうものですね。
インドでは国と言ったんですが、日本でも昔は大和の国、河内の国といいましたね、それと同じことで、舎衛国というのはひとつの都市なんです。

その舎衛国の祇樹給狐独園というのは、祇園精舎のことですね。
お釈迦様には千二百五十人の阿羅漢のお弟子さんがたわけです。
その阿羅漢とう位は、輪廻を解脱した方なんですね。

輪廻というのは、地獄へ行ったりこの世へ生まれてきたりと、行ったり来たり我々もそうです。
これを輪廻というのです。
輪のようにくるくるとあっちに生まれこっちに生まれる輪廻。
その輪廻を断ち切った人を阿羅漢というのです。

その阿羅漢というのは、舎利弗とか目連とか迦葉とかそういう阿羅漢が千二百五十人あったということです。
つまり、悟ってしまった人々ですね。
たくさんの弟子があるわけですが、そのなかで善知識で立派なお坊さんということですね。

摩訶目けん連 の摩訶というのは、偉大なという意味です。
賓頭盧さんはよくお寺のお堂の外に祀ってありますね、なぜ外にあるかといいますと、目連尊者と賓頭盧尊者が二人で托鉢に行ったんですね。

すると或る人が、さおを先に物を付けて、それを取ってみよというのですね、それを他の宗教連中が取ろうとするのですが、どうしても取れないのです。
すると賓頭盧尊者が目連に、君は神通第一だから神通で取ってやれというのですね、木蓮は神通をそんなものに使うものではないんだと言うわけです。
賓頭盧さんはそれが悔しくて、賓頭盧さんも阿羅漢ですから神通を持っているわけですからね。
それでそのさおの先の物を取ったわけです。
それで得意になって帰ってきたわけです。
そしたらお釈迦様にお叱りを受けたのです。

おまえは神通をむやみに使ったではないかと。けしからんと。
おまえは死んでもこの世の人を皆守ってやれ。
浄土の静かなところへ行かないで、この娑婆へ残って人間を守ってやれと言われてお叱りを受けたんですね。

神通は、法を説くときと、人を救うときと、自分の身を救うときと、其のとき以外に使ったらいかんのだと。それにちなんで、お堂の外へ祀ることになったのです。
大勢のお弟子さんがある中の舎利弗を代表にしてお告げになったと。

「是より西方、十万億土の仏土を過ぎて世界有り、名付けて極楽という」 
この地球から西へ西へと行ったら十万億の仏の世界があるというのです。
極楽だけが仏の世界じゃないのですよ、仏様は皆あの世へ行ったら自分の浄土というのを持って、自分に縁の有る者は皆救いとっていくのです。

そういう仏様の世界が、この地球から西に向かってずーっと極楽へ行くまでに、他の仏様の浄土が十万億あるということです。
その十万億の仏土を過ぎてその向こうにもうひとつ浄土があって、その浄土を極楽というのだということです。その極楽浄土の仏様を阿弥陀如来というのです。

お釈迦様がこの阿弥陀経を説いているときに、ちょうど西方極楽でも阿弥陀様が極楽の衆生のために説法をしておられるのです。
このようにお釈迦様が阿弥陀様のことをお説きになっているのですが、ところが今の坊さんは信じないですね。


二、これより西方十万億、仏土を過ぎて世界あり、弥陀と言えるは教主なり、今現在に法を説く。 其の土の衆生一人も、衆苦有ること更に無し、只、諸々の楽を受く、此の故極楽国と云う ――。
                    ― 小協賛 ―


これを和讃というのです。この和讃はどの宗派にもありますね。
詩にふしをつけて読む。そういうのを得とくした坊さんが作るんですね。
そしてお勤めの間にこれを挟むんですね。いろんな坊さんが和讃を作ってますね。
これは小協賛といいまして阿弥陀経のことです。
大は無量寿経です。真ん中のお経を観無量寿経。
そしてこの小さいのは阿弥陀経です。


三、往生極楽ことばには、云えども心は留まらず、自らここちに願わしき、ことに思いを係くべし。 臨命終の時至り、西方界の虚空を、遥かに見れば大光雲、山の如くして起こらん。 弥陀如来諸化仏、観音勢至諸菩薩埵(た)無数の賢聖天人衆、光の中に満ち満てり。 ―― 光雲慚く近づきて声々我をほめ給わん。 遂に引接(じょう)し給いて金蓮台に坐せしめ、即ち仏後に従いて、安養浄土に往生せん ――。

                    ― 晨(じん)朝居讃 ―


往生とか極楽というのは口では簡単に言えますが、ところがそれは口でばかり言うだけで本当に心からそうは思えないということです。

「自らここちに願わしき」
というのは、心の行くほうへ心の行くほうへと付いて行くわけです。
我々は煩悩がありますのでどうしても心が統一できないということですね。

「臨命終の時至り、西方界の虚空を、遥かに見れば大光雲、」