和尚さんの法話 「仏教入門」 2
苦しみの境界に置かれるとその度合いによって、我々は怒りを発する。
ですから、この苦受の奥には貪、瞋、痴の瞋、怒りが含まれているんです。
そして、楽受には貪という煩悩が潜んでいるわけなんです。
我々が楽な経験したときには、どんどん、どんどん愛着という煩悩が湧き出てくる。
軽ければ、眠ってるわけですね。
この不苦不楽受は何か。
これを別名、捨受(しゃじゅ)というんです。そして、捨受には痴があるんです。
「苦受には、瞋の随眠(ずいみん)あり。
楽受には、貪の随眠あり。
不苦不楽受には痴の随眠あり。」 と、こういうお経がある。
随眠というのは、煩悩のことですよ。眠っている煩悩というのかな。
今、皆さん腹も立ててないし、別に欲も起こしてない。じゃあ煩悩はないのかというとお互いにあるわけですよ。そういう状態を随眠と言ってる。
だから、楽受に向かって行くのが貪の煩悩、苦受に向かって行くのが怒りの煩悩で、不苦不楽受の場合は痴だというんです。
この痴というのは無明なんですね。
これは結局、一切の道理に対して無明なことをいうんですよ。
無我の道理が分からず結局無我になれないということ、つまり有我であるということですわね。
この有我ということが、痴の一番根本です。とにかく仏教の道理が理解できない、それを皆痴というんですよ。
因果の道理もそうですし、因果の道理というのが仏教の教理ですから、その教理が分からないから愚痴が出る。
それも痴なんです。
ところが、それだけじゃない、とにかく一切の仏教の教理に対して理解できない。
その根本は何であるかというと有我、無我の問題ですね。何故無我になれないのか、何故有我がいけないのかというその一番根本は無我、有我の問題です。
無我の道理に愚かである、これが根本。
これを元品無明(がんぽんむみょう)というのです。
一番根本の無明です。
だから、この楽受も苦受も結局皆これがあるんです。
これは全部にある。この捨受、不苦不楽受は貪もなければ瞋も起こってないけれど、痴だけが残ってるわけです。
だから、我々は貪、瞋、痴皆備えているんです。「貪瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔」という懺悔のお経文がありますね。
貪と瞋の奥に痴がある。
痴は総ての遍行因だから、もう、とにかく隅々まで水の如く行き渡ってしもうているわけですわ。
我々の心の全部が痴によって染まってしまっている。
たとえば、犬や猫は我々よりも遙かに低級でしょ。
ところが、場合によったら我々は畜生よりもっと煩悩が強いのじゃないかと思う時がありますわね。
煩悩の有る無しということを色々と考えてみたら、犬や猫にはあんな煩悩があるんやろうかと思うようなことがあるはずです。
では、彼等は持っていないのだろうかというたら、そうじゃないんだ。
発動するだけの機会がない。
それがずっと奥の方にあって、それよりももっと表の煩悩が外に出てるから、奥の方にあるものが出ていないだけのことなんです。
だから、この痴というものは苦受、楽受にないのかというとそうじゃないんで、あるんです。ずっと奥にある。
あるけれども表に出ないから、結局、直接瞋、貪があるとなっている。
だから、我々のどの心を取り出してきても、皆無明に覆われている。
つまり、有我が根本になってある。
無我の道理が分からんからということが、根本になっている。
それが分かったら阿羅漢ですわね。
そこで、もう一遍この『三十頌』に― えらいこだわるようですが― もう一遍触れなきゃいけないんですが、『唯識三十頌』というのは、大きな問題をはらんでると思うんですよ。
その最たるものが、五遍行と阿頼耶識の相応ですね。
「初めは阿頼耶識なり。 異熟なり。 一切種なり。 不可知の執受と虚と了と。 常に触と作意と受と想と思と相応す。唯、捨受のみなり。」 (『唯識三十頌』)
阿頼耶識と五遍行とが相応すと、ここにある。
そして、その中に阿頼耶識相応の受は三受じゃなくて、「唯、捨受のみとなり」との文句があります。
阿頼耶識に五遍行は相応するんだが、五遍行の中には三受がなければなりません。
苦受、楽受、不苦不楽受の三つです。ところが、阿頼耶識に相応するのは楽受でも苦受でもなくて不苦不楽受だけだ、つまり捨受だけだというのです。
苦受と楽受を抜いて捨受だけと言っても、捨受もこれは煩悩ですから無明に覆われているんですね。
それで、仏教の道理を追求して行く時には、何か一つの根拠を求めないといけませんね。
何のお経にこうある、何のお経にこうないと、自分の勝手なことを言っちゃあ、私も観念論になって自分で間違いを起こしますから。
ところで、この『三十頌』というのは、世親(せしん)という人が作ったことになってますね。
ところが、この人のお兄さんに無著(むじゃく)という人があります。 二人とも菩薩です。
この無著のいうお兄さんが作られた書物の中の一つに、『瑜伽師地論(ゆがしぢろん)』(百巻)というのがある。
この瑜伽というのは、いわゆるヨーガということと一緒ですが、禅定の世界を段階的に説明してある。
だから、この位の人はこういう精神状態、この位の人になったらこういう状態と、そういうことをずうっと百巻に著してある。
で、この書物の中に、「阿頼耶識は煩悩の相応するものあることなし」という文句があるのですね。
阿頼耶識には煩悩は相応線というー 私は、それも納得いきますねえ。
それはもう証明できるでしょ、この相応というのは、Aが滅びたらBが滅びる関係ですから。
だから、もし煩悩と阿頼耶識とが相応するとするならば、永久に阿羅漢は出ません。三界解脱は永久にできないということです。
ということは、滅尽定ができないということでしょ。
滅尽定とは、一切の煩悩を滅する禅定のことです。
しかし、滅尽定の中に阿頼耶識は存在するんですわね。
阿頼耶識と末那識とだけが残って、煩悩が全部なくなる― そんなふうに煩悩を対冶する禅定が滅尽定なんですから。
だから、この道理から言っても簡単で、阿頼耶識と煩悩とは、相応するはずがない。
捨受といえども煩悩に覆われているんですからね。
とにかく受というのは、これはもう煩悩なんです。
煩悩があるから受があるんですよ。
無明があるから受があるんです。
捨受が阿頼耶識に相応するはずがないと思うんですね。
五遍行が相応しなきゃあ、もちろん捨受もそこへ含まれるんですから、これだけが漏れるというはずがないんですよね。
これはもう蛇足なんですわ、本当いうたら。
こんな説明することいらんのやけども、『三十頌』には念を押して「唯、捨受のみなり」とこう説いてあるから、やっぱりそこへ引っ掛けてきて、何故その捨受だけを持ってくるのかと思うんです。
捨受は、痴の随眠に覆われているんだから煩悩です。
煩悩を持ってるものは阿頼耶識に相応しない、そういうふうに兄さんが言ってるわけです。
ところが、世親作と言われるこの『三十頌』に、唯捨受は阿頼耶識に相応する― というよりも、五遍行そのものが阿頼耶識に相応するとなってる。
この辺がおかしいんですよね。
作品名:和尚さんの法話 「仏教入門」 2 作家名:みわ