和尚さんの法話 「仏教入門」 2
この相応という話が少し発展しすぎましたけれども、とにかくそういうことですから、一つあると皆ある。
だから裏を返せば簡単で、一つを対冶すれば皆対冶できるとこういうわけです。
一つ対冶して残る、一つ対冶してもまだ残るというんじゃなくて、この五遍行の一つが対冶できたら、皆バラバラバラット倒れて行く、こういう関係になってるんですね。
これを具体的にいうたら、禅定に入って、この意識をいうものを消す。
そうしたら、もう受、想、識、あるいは作意、触、受、想、思というものは皆消えてしまう。で、意識が消えるもんだから― 意識は我ですから― 我が消える。
我が消えたら煩悩がない、この我が煩悩を持っているんですから。
私が煩悩持ってるんですから、私がないのに煩悩だけがあるってはずがない。
煩悩というのは、皆意識にくっついている。
だから煩悩を消そうと思ったら、意識を消したらいい。
禅定に入って自由自在にこの意識が消せる、そしてまた出てくる。これが自由自在に、コントロールできるようになる。
それは煩悩がなくなってしまってるからできるんで、煩悩のある間は、意識が消えない。
意識と煩悩はとは、相応してるんですね。
この作意、触、受、想、思というのは、煩悩の段階ですね。
だから、この作意が起こると触が起こる。三事和合が起こる。
触が起こると受の感覚が起こり、受が起こるとそれに対して、どうだ、こうだという分別が起こって、想というのが起こってきて、それに対して意思が発動すると、こういう順序になっているんですね。
作意が因とすれば触が果で、触を因とすれば受が果ですね。
受が因とすれば想が果となり、想を因とすれが思が果となる。
だから、因というものは永久に因、果は永久に果と、そういうもんじゃなくて果はまた因になり、因が前からいうたら果になるとそういう関係です。
順序を付ければこうですが、実は一瞬にパッとなるんですね。
意識を因とすれば、五編行が果。
だけど、因と果葉離れない。
説明すれば因と果、ここで切れそうなもんだけれども離れない、相応してるから。
相応因の果が、士用果。
相応因によって招かれるこの果を士用果というんですが、その士用果というのは、たとえば私達が鍬をもって土を掘る。
一鍬掘る一鋤分だけの土が掘れますね、二鍬分じゃない。
二鍬入れたら二鍬分の土。
三鍬入れたら三鍬分の土と、その土が一鍬ごとに増えて行く。
一鍬したら一鍬分だけ増えて行く。
それを士用果という。行動と結果が相応している。
そういうたとえから出てきた言葉、使い方ですね。
とにかく相応因の果は、必ず士用果と呼ぶことになっている。
○世間に生を受くるもの、皆我に著するによる。 もし著我を離るれば、則ち世間受身の生処なし。 (地持経)
○もろもろの悪は、なすことなかれ。 もろもろの善は、奉行せよ。 自からその意を浄くせよ。 これ諸仏の教えなり。 (涅槃経)
○たとい大火の3千大千世界に充満することあるとも、かならずまさにこれを過ぎてこの経法を聞き、歓喜し信楽し、受持し読誦して、説のごとくに修行すべし。 (無量寿経)
了
作品名:和尚さんの法話 「仏教入門」 2 作家名:みわ