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和尚さんの法話 「仏教入門」 2

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というのも、この修惑というのは禅定に入って、滅尽定に入らなければなくならないものなんですね。
この意識というのはまずは我なんですから、我々意識がなかったら我がないんですわね。
意識が、あいつが、私がというように五人の家来使って―、 意識が欲しがる。だから、この我をなくそうと思うたら意識を消さんといかん。
意識を消そうと思うたら滅尽定に入らないといかんと、こうなってくるんですね。
だから、自力聖道門あるいは通仏教で追求して行くと、禅定ということが問題になってくるんです。
で、今いう五遍行の触と受、これは迷いなんだというわけです。 迷いの中の一つの過程ですわね。
まず無明というのは、無我の道理が分からない。 
つまり、滅尽定に入れないということですわね。
有我(うが)だということですわ。 
我々は有我ですね、意識がある。そうすると有我の場合、何があるのかというと行(ぎょう)がある。
この行というのは、三つある。 
体と口と心。身行(しんぎょう)、口行(くぎょう)、意行(いぎょう)と三つある。 
これは何かというと、身行というのは身の業、行という意味で、これは息だという。 
出る息、吐く息です。
次に口の業というのは、言葉ですね。
その言葉というのは何で起こってくるのかというたら、言葉を発しようという心があるからだ。
心がとにかく肉体を通じて命令するんです。 
何か言いたい―、 言葉に出るということは心の働きがある。それを難しい言葉では、有覚有観(うかくうかん)というんです。 
これが、意行になります。
有覚有観というのは、はっきり自覚がある。 
ああ白いなと思うたら白と、赤いなと心に思うたら赤いと、こう言葉になる。
そのように有覚有観というのは、心にある一つの段階、ある意識状態です。
それも、こう上っ面な意識の状態ですね。

しかし、五遍行の中の想と思とは有覚有観よりももっと奥のものですね。
この有覚有観というその表に出てきた心の動きのもう一つ奥に、その原動力になる想念がある。
有覚有観というのは心の表面、想、思というのは心の内部。 
まあ、想と思とは、またこれ深さが違うんですけれど、一括して想、思と方が有覚有観よりも深い。
この身行、口行、意行の三つをここで「行」と言っているんで、この三つがある間は滅尽定じゃないというわけです。
だから滅尽定に入ったら息が止まり、言葉が止まり、この想念が止まる。
つまり、無念無想になってしまう。
もう文字通り厳密に無念無想になってしまう。
だから、入ってる自体本人が分からない。 
無念無想ですから、自分が今入ってるというのが分からない。
戻ってきた時、あっ、今滅尽定に入ってたんだなと、こう分かるわけです。
有覚有観という状況には、なかなか入れないんですよ。 
それでも修行して、定を一所懸命実践して行くと、あるところまで行ったら有覚有観がなくなる。もう一つ進んだら息が止まる。 
ところが、まだ意行がある。 
外から見たら死んだみたいに見えるけれども、まだ想、思がある。
で、もう一つ深く入ったら意行がなくなる。 
身行、口行、意行全部なくなった時に、つまり無明の状態が明になった時に、この行の三つがなくなるわけです。

次に、識は何かと言えば、意識と取ってください。
今は滅尽定の話ですから意識もなくなる。名色(みょうしき)というのは、色、受、想、行、識の五蘊(ごうん)です。
ここにも、受、想、行が出てきます。 
色というのは体で、この受、想、行、識というのは我々の精神作用を分析してるんですね。
ここに受、想とありますが、五遍行が入ってるわけです。識は意識です。 
行というのは意行で、作意と触とそして思。だから結局五蘊は、意識と五遍行と体とこういうわけです。
つまり、人間ということですね。
結局、人間は肉体と意識と五遍行によって成り立ってる。
その五蘊のことをここでは名色と言ってるんで、色というのが五蘊の初めの色で、名と言ってるのがこの後の受、想、行、識ですね。
何故そんな分け方をするのかというと、五蘊というと必ず五つそろわなあきませんわね。
ところが、名色というと場合によっては、名と色とが離れることがある。
何故というと、この三界には体がありますけれども、無色界へ行ったらもう体がない。
この受、想、行、識を名と言って、ここで切り離さんならんことができてくるんです。
無色界へ入ったら、もう色を除いてしまって受、想、行、識だけが問題になってくる。
そういうことで、ここで名色と言ってるわけです。
そこで、五蘊がそろうとそこには六つの感覚器官(六入)― 眼、鼻、舌、身、意はそろう。
入(にゅう)というのは根(こん)のことで、眼覚乃至意根、この六根のことです。
六根がそろうと触が起こる。 
触が起こると受が起こる。
受が起こると愛が起こる。 
この愛というのは、仏教では慈悲じゃなくて、求める気持ちですね。

飢えと渇えとか、その飢餓状態。 おなかがすいたり、喉が渇いた時に、水が飲みたい、ごはん食べたいというその欲求があるでしょ、それを仏教では愛というのですね。
それが強くなったら取(しゅ)、つまり、執着が起こる。
愛が、もう一つ強烈になって忘れることができない、そういう状態が取。
こう見てきますと十二因縁は、ずうっと煩悩の起こってくる順序を説いてあるわけですわね。
だから、この触とか受とかがなくなるということは、結局もう無明もなくなるということなんです。
だから、触と受がなくなるということは、滅尽定が可能であるということなんですよね。
結局、そういうところに関係があるんですな。
前に三事和合といいましたが、対象と眼根と眼識、あついは意根と意識というように、根と境と識がピタッと合うた時に我々はある体験をする。 
体験をすると必ずそこに受、つまり感覚のことですが、必ず感覚を受ける。
それも不快の感覚、つまり苦と楽と不苦不楽、この三つの感覚を受ける。
苦受と楽受と不苦不楽受、この三つを三受(さんじゅ)という。
楽受というのは、自分に対して快楽を与えてくれる感覚、幸福感ですわね。
それに対して必ず欲望を発するわけですわ。 
もっと欲しい、もっと欲しいという欲望を発するわけです。それが愛ですな。 
だから、受があると愛を起こす。
苦受というのは自分の不幸な感覚ですから、こんなものはいらんと拒否します。
不苦不楽受というのは楽もない、苦でもない、拒否もしなければ望みもしない。
我々凡夫の立場からいうたら、そんな苦しみもなければ楽もないなんて、まるで干からびた人生みたいになってしまいますが、仏教からいうとこの三つの中で、一番不苦不楽が心の境地としては高いんですね。 
一番低いのが楽受というもので、これが一番危険なんです。
楽受があると、必ずそれが愛となって発動しますからね。
ところが、これらはたとえ不苦不楽であっても皆煩悩をはらんでいる。
受には煩悩がはらまれている。 
無明からきてるんですから、皆無明に覆われている。
我々の心は根本に於いて全部無明に覆われているというわけです。

この苦受がきつくなってくると怒りになるんですね。