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和尚さんの法話 「仏教入門」 2

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そうすると、いついかなる時でも同時に存在しなければいかんのが相応なんだから、これが前提ですから、五遍行が滅してしまってなお阿頼耶識だけが残るとなると相応になりませんね。
滅尽定という禅定の中では阿頼耶識は消えないということになってます。
ところが、五遍行は消えてしまうという。 
そうすると相応にならないですね。
だから、これは阿頼耶識ではないと、私は思う。先に挙げた引用文では、単に識と書いていて意識と書いてないのだから、識という時には阿頼耶識も入るのではないかという人がある。
あるいは、この意識と阿頼耶識の間に、もう一つ末那識(まなしき)というのがありますね。
だから、ここは阿頼耶識と末那識と意識とを三つ一緒にして識と言ってるんだという人もある。
それにしてもやっぱり同じことであって、滅尽定という籠で掬い上げてしまったら阿頼耶識しか残らない。
滅尽定というものへ入ったら、意識も消える。また阿頼耶識と第七末那識は相応してるんですから、末那識があれば阿頼耶識があるし、阿頼耶識があれば末那識がある。
そして滅尽定に入ったら、意識だけが消えて阿頼耶識と末那識が残る。
そしたら三つというてるけど、意識が消えてしまうから二つになるんじゃないですかと、こうなってくるんですよね。
そういうことで、ここに六法と言ってる第六番目の識というのは、末那識でもないし、阿頼耶識でもないし、一括して識と言ってるのでもないし、これは意識でなけりゃなりません。
滅尽定に入ったら意識は消えることになってるんだし、五遍行も消えることになってるんですからね。
それは、私が勝手に言ってるんじゃないんですよ。滅尽定は、別名、滅受想定というんです。 
受と想の二つが消えるということは、結局皆消えるということで、もちろん意識も消えるということです。
そこに、「一切遍行同行相応有り。 謂く、受、想、思、触、作意と及び識となり。 此の六法は一切の位に於いて、決して相応す。 一法の無なるに隋いて余にも亦無なるに由るが故なり」
一つなくなれば皆なくなるから、これを相応というんだと、こういう根拠があるわけですよね。
そこでもう一つ、この滅尽定という禅定の中に細心(さいしん)― 細かい心があって、これが体から離れないとされています。滅尽定に入ったら息が止まるんですよ。 
脈も止まる。
だから、死んだ人と滅尽定に入った阿羅漢とどこが違うのかと、体温がある。
死んだら体温はなくなりますけども、滅尽定に入ったら息も止まり脈も止まっても体温がある。
その体温のあるなしによって、死んでいるのか滅尽定に入っているのかという区別がつくわけです。
それは何故かというと、心が身から離れていないのなら、霊魂がたとえ糸筋の程でも肉体とつながっているのなら仏教的な死の判断では、それは死んでないということになってくるんですね。
昔から細心とは、一体何だという議論がある。
小乗から大乗へ移ってきた時、小乗では末那識、阿頼耶識は説いてないんですよ。
大乗に入ってきてから末那識、阿頼耶識という説を、お釈迦さんがお説きになってるんです。
それで印度の昔の小乗仏教徒は、身を離れざる識というのは、これは意識だというんですね。
ところが、大乗の方では、いや、それは違う、身を離れざる細心とお釈迦さんがおっしゃったのは、阿頼耶識なんだという議論があるんです。
小乗の人達のように意識だというのなら、意識には五遍行が付いてる。 
五遍行が付いてたら、受と想があるんだから滅受想定にはならん。
だから意識と五遍行が一対になって、これはもう切り離せないんだから、意識を認めたら五遍行も認めなきゃならん。 
五遍行を認めたら受、想はもちろん認めなきゃならん。そしたら、滅尽定を滅受想定という呼び名が成り立たん。だから、意識じゃないんだと大乗は否定するわけですねえ。 
私もこれでいいと思うんですけども―。
そしたらまた、それはそうじゃないんだ。 
これは、五遍行は全部消えるけれども、意識は消えないんだという説がある。 
まあ逃げ口上ですね。
心所は消えるけど心王は消えないのだとこういうんだけれども、そりゃあ、もう無謀なんですよね。
ここで、『般若心経』にも出てきました十二因縁というのに一遍目を転じて頂きたいと思うんです。

十二因縁というのは、『般若心経』には 「無明も無く、また無明の尽きることも無く―」 というように無明と一番最後の死だけしか出てませんが、一番最後の老死というのは生まれるから死ぬんだということになるんですね。
お釈迦さんが、人間というものは何故生まれてくるんだろう、人間は生まれたら死ぬ、老い且つ死んでいかなきゃならん、これは人間の最大の不幸である、この老死ということから脱却するためには、どうしたらいいんだろうかと考えられた。
そのためには、まず、その老死の原因をたどらないといかん。 
何故老死があるのかというと、それは生まれてくるからだ。
だから老死を超越しようと思ったら、生まれなきゃいいんだ。
だから、仏教は、いかにすれば生まれてこずにすむかという教えですね。

不生(生ぜず)の位を無生法忍(むしょうほうにん)とこういうんですが、もう再び生まれてこない位、つまり三界を解脱した位です。
極楽行ったら皆そうですね。 

だから、他力で行きましょうとこうなってるんですね。
たとえば、ご回向の文の中に「速証無生身―」。 
「速」というのは、時間を待たず今すぐにという意味ですわね。
「証する」というのは、経験する、体験する、実証するということですね。
「無生身」とは、生まれることのない身に到達すること。 
体験するということは、到達するということですね。
極楽に行けば、速やかにこうなるわけです。 
阿弥陀様のご本願によって再び三界六道に転落しない。
一旦極楽へ生まれたならば、この速証無生身です。
こちらで息落ちて、目開いてフット気が付いたら蓮の台で極楽往生してるんです。
でも、それは無生身で、再び生まれてこない。 
輪廻の世界へ落ちてこない。
この輪廻の世界へ落ちてこないことが当面の仏教としての問題で、この世だけの問題じゃないということですね。
むしろ、あの世の問題ですね。
こうしてたどって行ったら結局、人間は迷うてる。 
無明である。 
迷うてるから、生まれてくるんだということです。
そこで、ここに触と受、五遍行の触と受が十二因縁の中に入っている。この十二因縁というのは、迷いの輪廻の過程を説いているわけですね。
人間は何故迷うのか、何故生まれてくるのか、何故輪廻するのかと、ずうっとこうたどって行ったら結局、無明だということになるんです。
無明というのは無我の道理も分からなければ、実際無我にもなれないということです。
道理というのは、学問的な問題ですね。 
無我の道理、これが分からんということは知的煩悩なので、見惑(けんわく)という。
無我そのものが実現することができないというのが感情的な煩悩、これが修惑(しゅわく)です。
無我の道理が分かった。 
それで見惑がなくなっても実際無我にはなれない、まだ修惑が残ってるから。