和尚さんの法話 「仏教入門」 2
不即不離という言葉の中には、これを付け加えなくても当然付いてくるわけですね。即というのは、AとBが同時同処に不即不離である時に即というのですね。
『心経』にある「色即是空」ということは、色はイコール空であり、空はイコール色であるということですね。
ところが不即というのは、これは打ち消しであるから「即に非ず」、AはBに非ずということですね。つまりAはAであり、BはBであるとこういうことですね。
つまり二つのものであって、しかも一つのものである、色も空も一緒だとこういうことです。不離、離れず、離すことができない。
二つのものでありながら切り離すことができない、こういう関係を相応とこういうわけですね。そして、私達の心の中にも相応したものがたくさんある。
一例を挙げますと、心王と心所がそれです。
心所とは心所有の法。心というのは心王のことですね。
心王が所有しているところの法という意味です。
つまり、これが中心になる。
中心になる心の下に、家来になる心が付いている。
これ皆、法と言ってますけれども心ですね。
法というものは「もの」ということですが、ここでは心。
心王と心所は、王様と家来の関係です。
王様のいない家来はなく、家来のいない王様というのもない。
王様があって家来がある。
家来があっての王様である。
王様、家来という言い方はたとえですよ、現実には家来が皆死んでしもうても王様だけ残るということがありえますから。
たとえというのは決して厳密じゃありませんわね、ほぼそうかなと分かって頂くためにいうことですから。
この心王、心所を具体的にいいましたら中心になるのが意識、それに五人の家来である作意、触、受、想、思という心所があるので五心所といいます。
あるいは、また五編行ともいいます。
それで、王様である意識が活動する時には、この作意、触、受、想、思という五人の家来は、もうどちらが王様か分からんというほど一緒になって働く。
王様も一緒に働く。
王様と家来は一体になって働く。
だから、意識がある時、五編行がある。
意識がなくなれば五編行もなくなる。
意識が働けば五編行も働き出す。
意識と作意、触、受、想、思とは、こういう関係になってるんです。
この作意というのは、心がこれから働き出す一番最初の瞬間ですね。
意識と五編行とが対象に向かって働きかける時に、この五つの中で、一番最初に働き出すのが作意です。
たとえば、ここに物がありますが、物は私達が意識しようが、しまいが、あるのですね。
一方、私達には、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根と五の感覚器官、五根があります。
その対象が、色境、声境、香境、味境、触境です。
外にある物が、私達の意識にのぼってくる順序を一つの例で説明しましょう。
物 ・ 対象が、まず眼根に刺激を与える。すると、これは何だろうと眼識がまず受け取る。
ここに作意というのが働いて、この瞬間もう無意識的に意識に報告する。
何か外から入ってきましたよと言って王様、つまり意識に告げるわけです。
ところが、これもたとえていいましたら、社長さんに報告に行くのに社長さんに直接というわけにはいかん、秘書を通さなければいけません。その秘書の役をするの意根です。
意根が意識に、秘書が社長に伝えるのです。
そして、意根が意識に報告すると共にもう一遍眼根に対して、本当かと確認するわけですね。
物があるというのは本当かと、再確認する。
そしたら、この眼根はもう一遍眼識にその通りと報告して、初めてここではっきりと色境をとらえるわけです。
この完全にとらえられた状態を触というんです。
その完全にとらえる一歩手前、とらえるように働きかけるのが作意。
こういう分析になってあるのですね。
そこで、色境と眼根と眼識、これ皆一緒ですが、これを三事(さんじ)というんです。
三事和合(さんじわごう)という仏教語がありますが、ここに和合というのはピチッと、とらえるということですね。
完全に根と境と識がピタッとこう一致する、それを三事和合といい、この三事和合した状態を触というわけです。
仏教の専門語では、「三事和合して触あり」というんです。
この触があれば必ず順序が決まっていて、受、想、思と働くんです。
五編行を一括すれば意識と相応している。
五編行の一つ一つがまた相応してる。
作意がなければ、触がない。
作意があるから触がある。 触があるから受がある。
触がなければ、受がないと、これ皆相応になっているんですね。
この根拠を、私が勝手に言ってるんじゃないんで、挙げますと、こういう箇所があります。
「又一切遍行同相応有り。謂く、受、想、思、触、作意と及び識となり。
此の六法は一切の位に於いて決定して相応す。
一法の無なるに随いて余も亦無なるに由るが故に。」 (『大乗阿毘達磨雑集論』)
○「一切遍行」というのは、五遍行ですわね。
「一切遍行同行相応有り」と、五遍行の相応ということがあるんだ。
○「謂く―」、ここでは順序が変わってますが、
○「受、想、思、触、作為」と、この五つですね。
「―と及び識となり」 と、こうなってますね。この識というのが意識のことですね。
ところで、ここにある識というのは阿頼耶識じゃないかという人もあるんですわ。 そんなことはない、これは意識ですね。
○「作意と及び識となり。此の六法は―」、こうなってますね。六法というのは、六つの心。
○「此の六法は一切の位に於いて決定して相応す」、こういうことですね。
およそ心が存在する限りは、この意識を作意、触、受、想、思というのは、いずれの時でも、いついかなる時でも一緒にある、相応するんだ、ということですね。
○「一法の無なるに随いて余も亦無なるによるが故に」、一つしかなかったら全部なくなるんだ。
五遍行全部なくならんでも、もしこの作意がないということになったら触、受、想、思もない。
意識もない。
思がないということになったら、触、受、想もないし意識もないんだ。
意識がなかったら、もちろん五遍行もない。
とにかくこの六法と言ってます法というのは、ここでは心ですね。
この六法の中で、どれでも一つがないということになったら、皆ないんだ。
だから、意識と作意と触と受と想と思とは一括してもそうですし、これ全部こうお互いに皆相応してるというわけです。だから、一つなくなったら皆なくなる、当然ですわね。
二つだったら、一つなくなれば相手もなくなるけど、これは六つあるんですが、この六つが互いに相応してる。
だから一つなくなったら皆なくなる、そういう関係を相応という。ここで、ついでに申しますと『唯識三十頌』には、阿頼耶識と五遍行は相応するとあるんですよね。
これは、私は疑問だと思っています。
しかし、今仮に阿頼耶識と五遍行が相応するとしますね。
ところが、滅尽定という禅定があるんです。
自力で修行しようと思ったならば、座禅をしてこの滅尽定という禅定を体得しなければ、三界は解脱できない。
その位を阿羅漢というのですね。 舎利佛、目連は、阿羅漢です。
ところが、滅尽定という禅定は、この五遍行が全部消えてしまう禅定なんですよ。
作品名:和尚さんの法話 「仏教入門」 2 作家名:みわ