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和尚さんの法話 「仏教入門」 2

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唯識学は、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、という心の分析をします。
そこで、煩悩をなくすには、枝葉というよりも元を断たねばだめですわね。

木でもそうですよ。 
枝ばっかり削っても、いくらでも芽が出ます。煩悩もそうなんです。 
根を断たなければいけない。 
だから煩悩そのものというよりも、意識を断たんといかん。 
この意識が煩悩の元なんです。
意識というのは人格的な表現を使えば、我なんです。
だから、意識がある限りは三界は出られない。
で、この意識がなくなったら死んでしまうんと違いますかと言われますが、そうじゃなくて、この意識は禅定に入ると自由自在に消してしまえるのです。
禅定に入って意識が消えたら無念無想になりますね。 
ところが霊魂は不滅ですから、それでもう消えてなくなってしまうのじゃなくて、また戻ってくる。
いつでも入ったら無念無想となり、また戻ってくる。
また禅定になったら無念無想になり― と絶えずいつでも自由自在に、この無我、いわゆる無我になれて意識を消すことができたら、日々の生活も煩悩にさいなまれない。 
そのために座禅するんですね。
そういうことを勉強で、我々学ぶわけですね。

これ消したらどんな境地になるのかいうことは、教えてもろうても観の世界に入ってみて自分で体験できなければ、なるほどと納得いかない。 
想像するしか仕方ない。
仏教というのは、やっぱり体験せな分かりませんのです。
だから、お経というものも今は読むことになってますけども、本来は、こうしなさい、ああしなさい、ああしたらあかん、こうしたらあかん、こうお釈迦様が説かれたものです。
だから、お経というのは読むんじゃなくて、内容を理解して実行せなならんもんですわね。
ところが、それができない。 
できないから、せめて読むと。 
読むだけでも大きい功徳があるというので読んでるわけです。
真理―、 救いの真理を説いてますんですから。


○「人身受け難し、今すでに受く。 仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向かって度せずんば、更にいずれの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに至心に三宝に帰依したてまつるべし。」 (礼讃文)

○「前世の因を知らんと欲せば即ち今世に受くるところのものこれなり。後世の果を知らんと欲せば即ち今生になすところのものこれなり。」 (因果経)

○「父不善をなすとも、子代わりて受けず。 子不善えおなすとも、父また受けず。善あれば自ら福を獲、悪あれば自ら殃(わざわい)を受く。」 (泥洹経)




引き続きまして、仏教入門の第二講で、因、縁、果でございます。
仏教入門というよりも仏教学入門、あるいはもっと狭めますと心識論入門でございます。
毎度申しますように、この仏教とは心の勉強である。 
仏教は救いということはあまり申しませんが、解脱ということをいいますね。
迷いの世界から脱する。 
具体的には、輪廻転生の世界から超える。 
その超えるのも超えられないのも結局、心ですね。 肉体じゃない。
ですから、一部というより大部分かもしれませんが、仏教は生きんがための教えである、この世のための教えだという説はよくあるんですけれども、私は、これは、ちょっと不審に感じるんですね。

仏教はこの世のためのものじゃない、永遠のためである。永遠の中の自己をどうするか。 
この世だけが旅じゃないんだ、永遠の旅があるんだという、そういう大前提の下に仏教をいうものを、お釈迦様がお説きになっておられると私はこう解釈するわけです。
そこで、この世だけではなくてあの世があって、あの世に行ったりこの世に来たりと、いわゆる輪廻転生を繰り返している。 
それが人間界だけではありませんで、地獄、餓鬼、畜生、修羅とある。お経に説かれてることは、もう本当なんですね。 
決して単なる方便で、そういうことを説いたのだとか、作り上げたとか、あるいは文学であるとかということではない。
それは体験のない方の言われることであって、決してお釈迦様は、そういうことを単に人々をいい方に導くために、悪いことをしたら地獄に落ちる、善いことをしたら極楽へ生まれると、方便で説いたのではないということですね。 

客観的事実だということですね。
そこで、輪廻転生するのは肉体じゃない、霊魂、神識(しんしき)なんです。
霊魂という言葉を仏教的に少し言い替えますと、神識と言ってもいいわけです。 
道元禅師(どうげんぜんじ)がいみじくも申された、「仏道を習うとは心を習うなり」と。 
迷うのも悟るのも心ですから。
とすれば、その心の構造がどういうふうになっているのかということを、どうしても知る必要があるのですね。
他力浄土門では、それは必要ないのですが、他力浄土門は阿弥陀様のお慈悲を頂いて救って頂くというので、易行道(いぎょうどう)といい、非常に安易な道、安らかな道なのですが、その反面にあるたいへんな道、難行道(なんぎょうどう)というものを知って、比較した方が分かりよいんですよね。
ですから、ただ他力だけを聞くよりも、通仏教という自力を比較しますと一層阿弥陀様のお慈悲のありがたみというものが分かると、こう思うのですね。

以前に六四縁五果ということを、さっと上滑りですけれどもお話した記憶がございますが、今回は、まあ少し念を入れてご説明しようというわけです。
前回の続きでございますが、この最初の相応因 ・ 士用果―。
この相応因という言葉は、私達の平生の生活の中でも使うわけですね。 
よく、何々はあの人に相応しているとか、あるいは身分相応だとかいうふうな使い方をしますね。
しかし、仏教がここで相応という時は、二つのものが、AとBがあるとしましてね、Aがある時は必ずBがあると。 
Bがある時は必ずAがあると。 
Aがない時はBもない。 
Bのない時はAもない。
Aが働けばBも働く。
Bが働けばAも働くと、こういう関係なんですね。
これも前にたとえを取り上げましたけれども、この半紙の裏と表、一枚の紙の裏と表は、裏は裏であって、裏は表じゃない。 
これは、AとBなんですよね。どちらもAというんじゃない、AとB。しかし、このAという方を燃やしてしまったらBも燃えてしまう。 
表を燃やしたら裏も燃えますよね。表が濡れたら裏も濡れる、そういうふうな関係。そして、AとBとは切り離すことができない。 
別のものだけれども、切り離すことができない。
Aは決してBじゃない。 Bは決してAじゃない。 AとBは別のものなんですね。
別のものでありながら、二つのものでありながら、切り離すことができない。
切り離したら死んでしまう。 
結局、二つともなくなってしまう、こういうものを相応というわけです。
で、我々の心にも、そういう相応になってるものがたくさんあるわけなんですね。

それのご説明なんですが、今の相応ということを経論の中には色々定義してるんですが、それを一番簡潔明瞭に言い表した言葉は、「不即不離」といいう言葉です。
上に「同時同処」という言葉を付け加える。