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和尚さんの法話 「仏教入門」 1

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自分が前世で作った自分の徳ですよ。
ところが、その徳というのは、本来無形ですね。 
阿頼耶識(あらやしき)の中にポンと入っている。
阿頼耶識の中に徳、不徳は皆持ってきている。 
その徳が芽を吹いて現れてくる。
その現れたものが家であり、地位であり、財産であり、着物であり、食べ物である。
それは徳の現われで、徳がなかったら飢え死にせんなりません。
ですから、家を一軒建てたらお金がそれに応じて減る如く、徳も減っているわけですわ、家になったんだから。 
それでまだ徳が残ってればいいんですよ。 
たくさん前世で徳を積んできてあると、豪華なお屋敷建てられても徳が残ってあるから、ピンピンしてらっしゃる。
ところが、新築して死んでしまう人はもうその家に住むだけの徳がないということになるのです。
お経に、ちゃんと書いてあるんですよ。 
徳がなくなったら死ぬんです。

それで、そのね、私が前に和歌山の寺で庫裏を改築したんです。 
本堂は直接の如来様のおやかたですけれども、庫裏の方は私達がやっぱり使いますね。 
ですから、自分の日常の生活に密着してますので、徳が減ったらいかんと思いました。
向こうのお寺の石段をずっと降りて行ったら、そこにまた地蔵堂があるんですわ。
小さい建物で、もうボロボロで、板も剥がれかかっていた。 
それで、庫裏の改築をする前に、まずその地蔵堂を屋根からコンクリートでしてもらいました。 
お地蔵様のためにしたんですから、徳を積ましてもろうたわけですね、自分がそこに住むのとは違うんですから。
こんなふうに先に徳を積ましといて頂いてから庫裏の改築にかかった。  
それで、庫裏が完成致しました。
しかしながら、これは如来様なり、お地蔵様なりのお屋敷やと。 
これは拝借するんだというので、もう明日から住めるというときになって、まず三日間、本尊様の阿弥陀様にお休み頂くと。 
また次の三日間は、お地蔵様にお休み頂くと。 
そして、歴代の、開祖代々の歴代の上人方にお休み頂きたいと一日取りました。 
三日にしたら、如来様と同じ格になってきて、恐縮するといけませんわな。 
ですから、一日にしました。
それから私の祖父と父と、これは歴代の上人になるけれども―、 のために一日取って、六日、七日、八日ですわな。
八日間こっちで辛抱していて、それ済んでから移らしてもろうた。で、ここでも同じようにさせて頂いたわけです。 
それでないと、今いう徳が減るわけですね。

ですから、皆さんが新築なさったり、新しいお家になさった時にも、こんなふうにされると徳は減らんはずですね。
ご先祖方、どうぞ、お住まい下さいませ、いうてね。
その話をしたら、和尚さん、ええ話聞かしてもろうた、いうて、うちの檀家さんなんか新築なさって、六日間ほど辛抱してましたね、先祖のために休んで頂きますようにいうて―。
これは何も、どうちゅうことないというんだけども、そこが徳、不徳につながってくるわけですね。

ですから、徳というものは、お金と同じことで使えば減る。 
着物一枚いいのを買ったら、それでその一枚分の徳が減っているわけですね。
だから、貯金をパッパッパッパ使うてたら、しまいにもうお金がなくなるのと同じように、やっぱり使うてもええけど、働いて収支を償わんといけませんね。
それと同じことで、我々の日常で仏教的な生き方とこうなってきたら、我々は凡夫ですから、そりゃもう無我ではとてもじゃないが、よう生きていませんね。 
自分だけじゃない、家族も養わんなりませんから。
ですけども、そこそこは徳を積むということも大事です。 

徳積むということは結局、有形、無形に損するということですね。
人のために犠牲を払わないと徳にならないんですから、徳を積むのは難しいわけですね。 
まだ、新築をして移るのを辛抱している徳の積み方のほうが楽ですわね。 
ちっとも何も減らない。窮屈な思いだけしたら、ええんですから。 
それでも如来様は、ちゃんと帳面に付けてくださっている。 
うん、なかなかええことすると。 うん、ちょっと徳置いていてやれと、こういうふうなことですね。
ですから、徳というのは、とにかくあまり使うたらいかん。 
だから総理大臣が皆さんから、はあっと言われて、それは当然じゃ、当然じゃとやっていたら、どんどん徳が減ってく。
だから稲穂が頭を下げているようにと、あの話と同じことで絶えず腰を低うしてたら徳が減らない。

如来様は、一番てっぺんになってしもうているので、どんなにしても徳が減らない。
どんなに人から何をされたて、徳は減らんというんですね。 
だから、皆、如来様の足を頂いた。我々でも如来様の足を頂いていると、一番下のものを自分の頭の上に頂くと、徳が減らない。
三十三箇所とか、四国八十八箇所行ったら、地べたに座っている人があったんですわ。 和歌山のお地蔵様でも、地べたへ座って拝む人、たまにある。
印度なんか地べたへこうして五体投地して拝むんですね。 
そういうのは、皆ここからきているわけですね。
これは、まあ直接煩悩がどうとかいう話じゃないですけれども、そういうことも大事なんですな。
話は、えらいそれました。 
とにかく、一番根本に我というものがあって、それが根本で煩悩である。
だから、我を消して無我になったら煩悩はなくなるんですけれども、これがなかなかできない。


どうしたらいいのかというたら、それは「観」の世界へ入る。 
これを実行しなければ自力聖道門では、煩悩を断ち切る、無我になるということはできない。
観というのは、無我になる修行です。 
禅定に入ってしもうて、無念無想になってしまう。それを絶えず繰り返していたら、煩悩もなくなってしまう。 我がないのに煩悩があるわけがない。 
そういう修行になってくるんですね。
ところが、我々は、とてもじゃないができません。 
三祇百劫もかけてそんなんできませんというので、そうやったら、おまえ、如来様を頼めと、こうなってくるんです。
これは、信仰の方の話になる。
今日は通仏教として、こういうことを一応知っておいて頂いて、弥陀の本願というお話を聞かないと阿弥陀さんのご本願のありがたさということも分かりにくいと思うんですよね。
その煩悩というものは、結局我々の心なんですね。 
心が、ある場合は煩悩となり、ある場合は悟りとなる。 問題は、心です。

「仏道を習うは心なり」、結局仏教の勉強とは、心の勉強ですね。
心を分析すると因縁因果がありますが、因果と言えば善因善果、悪因悪果だけが総てだと思うてたら、そうじゃなくて六因四縁五果というて、因に六種類、縁に四種類、果に五種類ある。


(六因) 相応因 ・ 具有因 ・ 同類因 ・ 偏行因 ・ 異熟因 ・ 能作因

(五果) 土用果 ・ 等流果 ・ 異熟果 ・ 増上果 ・ 離繋(けい)果

(四縁) 因縁  ・ 所縁縁 ・ 等無間縁 ・ 増上縁

この中で、私達が日々の生活の中で気を付けなならんのは、善因楽果、悪因苦果、この因果関係ですね。
これ、異熟因(いじゅくいん)・異熟果(いじゅくか)というんです。これは報いとして、善は楽となり、悪は苦をなります。