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和尚さんの法話 「仏教入門」 1

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お経にこういうふうに証拠がありますというのを教証(きょうしょう)といいます。
仏教で何か議論してきたら、そんなことお経の何処にあると、こう言われるわけでね、勝手に言ったらいかんのやから、お経とか、お経でなかったら昔の偉い菩薩の書かれた論なりに、こうありますという証拠を出さないかんのです。
我々、専門的な話し合いになってきたら、私が勝手に言ってんじゃない、お経にこうございますと教証を出さんなりません。

そこで、この如来様になることはさておいて、とにかく三界を解脱する、しないのこの問題ですね。これは最前申しましたように「縛」というものがある。
結縛、繋縛(けばく)がある。
つまり、その煩悩があるために出られない。 
煩悩があるからこの三界で流転するんだというわけですが、四番目がそれの証拠です。


四、
「たとえば、灰を以て火覆わんに、若し乾草に遇えば、またまた焼燃するが如し。かくの如く諸苦は我を本となす。 
若し衆生あり、微我の想を起こせば、また更にかくの如きの苦を受く。
貪欲、瞋恚及び愚痴は皆悉く我の根本に縁りて生ず。
又、この三毒は、これ諸の因なり。 猶、種子の能く芽を生ずるが如し。衆生はこれを以って三有(さんう)に輪転す。
若し我想及び貪、瞋、痴を滅せば、諸苦もまた皆これよりして断ず。」    『過去現在因果経』の一節です。


今じゃ炭火というものはなくなってきましたけれども、我々昔は炭火があって、外へ出るときは火事にならんように灰をかけて出たもんですね。
で、火の上に灰をかけた。
だけど、その灰が深くかけてたらなんですけども、薄くかけてあったら、其の上へ紙が落ちたらやがて― 灰がもう熱せられてますから― 紙がメラメラと燃え出すと、こういうたとえですね。

○「かくの如く」、それと同じように、「諸苦は」、我々がいろんな苦しみに遇うと、病気したり、怪我をしたり、あるいは財産を蕩尽くしてしもうて路頭に迷ったりというような苦しみ―、 いろんな苦しみがこの人間界にはありますね。
その苦しみは総て元をただせば、煩悩だというのですよ。
原因は、この世へ生まれてきたからなんです。 
生まれてきたというのが、そもそもの始まりで、そういう目に遇うのだ。
その生まれてきた根本というのが、今いう煩悩です。それで諸々の苦に遭う。 
その苦に遭うのは、「我を本とする」。
仏教では無我とか、有我とかいいますが、その我が根本だという。
ここで火にたとえているのが、我ですね。

○「若し衆生ありて微我の想いを起こせば」、ほんの微かでも我、我見というものが心の中にあると、つまり無我になれなくて、「微我の想を起こせば、また更にかくの如きの苦を受く」。

我というのは自分ということですね。 
我々は自分というものを愛するがために食欲があり、性欲があり、あるいは敵がい心がありますね。
そういうのが嵩じてきたら盗みとなり、殺人となりするのですが、それは皆相手が憎いというよりも、根本は自分がかわいいんですわね。
顕在意識では我というものさえ忘れやっておるんでしょうけれども、この我が働いているわけでしょ。 
だから、結局我々の煩悩の根本は、我というものが断ち切れないということですね。
我というものが断ち切れないでその我を愛するがために、そこにいろんなものが付いて回ってくる。 
ですから、火の上に灰をひっかけたって、その上に紙や乾いた草を載せたら火が消えない限りは燃えるというのと一緒です。
つまり、我というものが滅してない限りは、

○「また更にかくの如きの苦を受く」と、 つまり生死輪廻する、そのたとえごとです。

○「貪欲、瞋恚、愚痴」、 一番根本は我だけれども、我を取り巻いている煩悩が三つある。
それを毒にたとえて貪、瞋、痴の三毒の煩悩だという。
この三つの煩悩の奥に我があるわけです。
我が貪欲を起こし、我が瞋恚を起こし、我が愚痴なんですわね。

ところが我々、我というものが消えてしもうて、貪、瞋、痴だけが働いていると思っている。
しかし、消えるというのじゃなくて、無意識的になってしまっているわけですね。
その奥に、ちゃんと、我というものがある。 
我があるから腹が立つ。 
我があるから欲しい。
自分のために欲しいのだけど自分というものは、我々はもう忘れている。 
ただ欲しいだけに、こう心が行きますわね。
これは皆さんに言っているんじゃなくて、自分にも言い聞かせているんですよ。
商売しようと思うたら、その商売の人のところに付いていろいろ教えを乞わんならんのと同じように、仏教ではやっぱり少し私達のほうが知っています。 
その時に、知らない方にお話するときに、説く者はこういう気持ちで説けとお経に書いてある。

それは、まず病気の人がおるんだと思いなさい。 
お医者さんは、その病気を治すためにいろいろ苦労する。
その薬が効くやろうか、どんなふうに指導したらこの病人さんのためになるやろうかということをいろいろ考えて、お医者さんがやるはずですわね。
回復するなら少しでも早いように、というふうに指導するはずです。 
そういう医者の思いを持てと、こう書いてある。皆さんを仮に病人としたら、お医者さんがその病人さんを看護するように、そういう思いでもって話をしなさいと。
だから、診断を誤ってはいかんというんですね。 
薬を間違うてはいかんというその思いをもってお話せないかんとお経に書いてある。
それで私達は宗教家ですから、親のええことであっても自分のええことであっても、皆さんに聞いてもろうて皆さんの参考になると思うたら言わせてもろうてもいいんだというんですね。

人のことでも悪いことあったら皆さんに名前言わんでも、こういう人がある、こんなことではいけませんね、というて、お互いが自策自励するように、悪口じゃなくてお互いに切磋琢磨して善いことを実行し、悪いことを止めて行くという意味でお話するわけですね。
ところが、うっかり間違えたらいけませんので、月に一回皆さんが来て頂くときに必ず本堂へ行って阿弥陀様を拝み、お地蔵様を拝み、どうぞ間違いませんように、皆さんにそうぞ理解して頂けるように、どうぞ私も皆さんと共々にご教化頂たいというて礼拝するんです。
そういうことで、自戒しながらお話さしていただいているわけです。
で、自分のことでも、皆さんのご参考になったらということもあるんです。
そのことで、今、一つ思い出しましたが、これ私のことなんですわ。 
ですから、ちょっと心苦しいのですが、これもええと思うんで言わして頂きますとね。 

話はちょっとそれますけども、よく世の中で家を新築したら死ぬと、こういう。 
全部じゃないけど、死ぬ人があったり病気になったりする。
それには仏教からいうたら根拠がある。
皆さんが家を新築なさるなり、買われるということは、それなりの徳があるわけなんですわ。
徳があるから新築できる。 
徳がなかったらできない。
ええ着物を着ようと思うたて、徳がなかったら着られない。
そういうふうに、これは徳の現われなんです。
日常の我々の生活というものは、結局徳の現われで、徳というものは前世から持ってきてる。
先祖の徳じゃない。