和尚さんの法話 「仏教入門」 1
仏教では自業自得ですから、先祖の因縁じゃなくて自分の因縁です。
「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ」、「父不善をなせども、子代わりてこれを受けず」と、お経の中に、ちゃんとある。
自分の業は、自分が獲得するのです。
善悪、これは意識ですね。
ところが、この苦楽というのは感覚的なものですね。
だから、善というものと楽 ― 幸福というものとの内容が全然違う。 変わってしもうてる。
善が善となり、悪が悪となって行くんだというんだったら、それはそこにある同類因(どうるいいん) ・ 等流果(とうるか)というんですよ。原因と結果が同じなんですね。
つまり前世で、ええことばっかりしてたらこの世へ、やっぱり善人として生まれてくる。
前世で悪いことばっかりしてたらこの世へ生まれてきたら、やっぱり悪人に生まれてくる。
我々の昨日の根性が今日と同じであるように、昨日の性格が今日の性格と同じであるように、昨日の性格が今日の性格に同類因 ・ 等流果してきてるわけですね。
だから、原因と結果が同じ内容になる場合が同類因 ・ 等流果。ところが、原因と結果が異なって熟する。
善が楽というふうに、異なって熟する。悪は苦という形に変わってしまうというので、異熟因 ・ 異熟果といいます。
つまり、善因楽果、悪因苦果のことを言ってます。これは、我々の日常の生活から密着して離れない。
仏教学を知ろうが、知るまいが、仏教に縁があろうが、なかろうが、この法則の中に我々は生かされておる。
だから、それを信じないというと場合によったら、自分の利益のために人を簡単に殺せる。
我のために、貪欲のために、あるいは怒りのために人を殺す。
あるいは、輪廻の道理を知らん愚痴のために人を殺す、物を取るというふうになるわけですわね。
これが、我々の日々の生活に密着しているのです。
もう一つ、この一番最初に相応因(そうおういん)というのがある。
相応因に対して、その結果は士用果(じゆうか)というのですね。
相応というのはどういうことかといいましたら、AとBというものがあって、そのAがあつ時には必ずBがある。
そのAがないのにBがあるということはないという、そういう関係、一対になっているわけですね。
ちょうど、右手と左手。 右と左というのは、右があるから左というんで、右だけ一本だけだったら右も左もないでしょ。
我々、両方の手、あるいは両方の足とこうあるから、片一方は右手、片一方は左手。 片一方は左足、右足と。
右一本、我々人間生まれながらに一本しか足がない、一本しか手がないんやったら、その手が右か左かということは問題外ですわね。
右というのは左に対して右であり、左は右に対して左であるというふうな、そういう関係を相応という。
それを心でいうたら、心王(しんのう)と心所(しんじょ)。
心王は王様ですね。
心所は家来。
王様があるから家来がある。
王様のない家来というものはありえない、家来というのは必ず王様の家来ですから。
王様も家来があるから王様なんで、家来を持たない王様、一人しかない王様というのは、これはないんですね。
誰かに仕えられているのが心王、仕えているのが心所です。
我々の心の中の中心になる心、これは意識です。
我々の意識作用は、この意識が中心になって、主になって、この下に幾つもある。まず、五つあって我々の日常の生活では、それは知っても知らんでも働いているわけです。
意識の下に作意(さい)、触(そく)、受(じゅ)、遍(あまね)く行きわたるので「五編行(ごへんぎょう)」というんですね。
だから、今、私が話しをする。
皆さんが聞いて下さっている。
これは、私が意識と五編行を使っている。
使おうと思わんでも、いつも必然的に使ってる。
使わなければ、つまりこの意識の五編行が働かなかったら話をすることも、聞くこともできない。
意識が働いているのに五編行が働かん。
王様が働いているのに家来が働かん。
家来が働いてるけれども王様が働かん。
そういうことは絶対にありえない。
王様と家来が同居して働いている。
で、私が今話しているとき、意識が五編行と共に皆さんに訴えて行く。
皆さんは、今日は難しい話になってきたと思うて色々と考えて下さる。
これは皆、意識と五編行が頭の中で働いているわけですね。
この意識は最前の言葉でいうたら、もう煩悩ですね。
だから、この意識というのは煩悩の親方なんですね。
だから修行の道からいうたら、煩悩を消そうと思うたら、この意識を消さなければならんと、こうなってくる。
この意識を相応因とこうすれば、この五編行が士用果ということになるんですわ。
それで意識の働きが強ければ、五編行の働きも強くなる。
意識の働きが緩ければ、五編行の働きも緩くなる。
王様の命令がきつければ家来も一所懸命働かなならんし、王様がゆったりしてたら家来もゆっくり考えてたらいいと同じようなことで、意識と五編行というのは同じような行動をとるわけですね。
それを相応するという。
ですから、十二因縁の中に入っている六入(ろくにゅう)、触、受、―、皆煩悩なんですよ。
煩悩があるから三界が出られないとなってきたら、煩悩をなくさないとしょうがない。
その煩悩をなくすにはどうするのか。
2に続く
作品名:和尚さんの法話 「仏教入門」 1 作家名:みわ