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和尚さんの法話 「仏教入門」 1

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これが究極の目的ですが、今いうたように一足飛びにいきません。まず三界を出なければいけません。

○「生死勤苦の本を抜かしめたまえ」。
勤苦というのは、衆生が生死してる苦しみを繰り返してる。
生まれては死ぬだけじゃなくてその間に病気、怪我、それから求めて得ざる苦しみ、それから争い、愛し合いながら離別するというようないろんな苦しみがその間に挟まってきますからね。
だから、生まれて死ぬまで、いろんな苦しみがある。
だから結局生まれてくるから、そのような苦しみに遭わねばならん。
我々は病気になったら治りたい、怪我にあったら平癒したい、愛し合いながら結婚したい、というようなこの世の望みがありますな。
しかし、それはそれで、ある時確実に得られたとしても死んだらまた繰り返す。
生まれてきて、また繰り返す。
だから結局は生まれてくるから苦しみがあるんだというのが、仏教の本来の追求なんです。
生まれてこないようにしないといかん。生まれてくるから死ぬ。
だから、死を解脱するためには生を解脱せなあかん、生と死を解脱せなあかんというので、生死解脱(しょうじげだつ)という仏教語があるわけなんです。


二番目が、
二、
「能く結賊を破り、後身を受けざるが故に比丘という。
世間は、皆悉(ことごと)く無常危胞なり。我が修学する所は無漏の聖道なり。
色、声、香、味、触、法に著せず。永らく無為を得て解脱の岸に至るなり。」
               (『過去現在因果経』)


お釈迦様がまだ太子の時に、城の東西南北の門を出ますとね。
そして最後に北の門でしたかな、出たときに一人の比丘がおった。
その比丘というのが仏教守護の神であり、仏教に帰依している浄居天(じょうごてん)でしたかな、神の化身なんですね。
ある時は病人となって現れ、ある時は死人となって現れ、そしてお釈迦さんに早う城から出て仏道の道に入ってもらうために、いろんな方便を使うわけですね。
で、最後に門を出た時、比丘の姿で出てくる。
しかし、他の者には見えない。 お釈迦様しか見えない。
その時に、おまえは何者じゃと悉多(しった)太子が聞いた。
そしたら、その比丘のいうた言葉がこれなんですね、「我は比丘なり」 とこう言うた。
比丘とは何だとこうきいたら、

○「能く結賊を破り―」、この「結(けつ)」というのは「縛(ばく)」と同じなんですね。
縛ともいい、結ともいい、結縛ともいいます。 
それから繋(け)、繋(つな)ぎとめるという字です。
印度というところは、一つの言葉を色々に使い分けしているようですね。
結、それから繋、と。
この繋縛(けばく)という熟語もあるし、ここでは結賊(けつぞく)とこうなってますわな。
まあ、一つになっても二つになってもいいわけですが、要するに煩悩のことですね。
賊というのはたとえの言葉であって、我々を苦しめる賊だ。 煩悩というものは賊だ。 
我々に仇するものであるというのです。

○「後身を受けざるが故に」ということは、もう再びこの世に生まれてこないというのです。
煩悩があるから生まれてくるんであって、煩悩を断ち切ったら生まれてこない。 もう後身を受けない。
これが生死の解脱ということで、当面の目的ですね。
「結賊を破り、後身を受けざるが故に」、そえを比丘というんだと。

○「世間は皆悉く無常危脆なり」。
この世の中、人生というものは非常に無常で危ない。 危ないだらけだ。

○「我が修学する所は無漏の聖道なり」。
私が求めているのは、そういう世間じゃない。 
無漏(むろ)というのは、煩悩のないということです。
有漏(うろ)というのは、漏(も)れるものが有ると書いてあるわけで、これは煩悩がある。
無漏というのは、煩悩がもうない。
漏れるものがないという意味で、無漏の聖道ということは、煩悩のない道を求めて行くということです。

○「色、声、香、味、触、法」、これは我々の五官の対象ですね。
色というのは眼の対象、声というのは耳の対象ですね。香は鼻、味は口、触は皮膚。
で、法というのは、あの世へ行ったときの対象になるものなんですね。特に色界以上です。
で、結局我々は五官―、つまり、色、声、香、味、触、法という肉体の対象に対して誘惑されるわけですね。
だから、色、声、香、味、触、法というものに執着しなかったら、それはもう煩悩がないことですよ。
煩悩があるので、色、声、香、味、触、法のどれかに我々は執着して求めるわけです。 
それに、「著せず」。

○「永く無為を得て」
無為というのも悟りということですね。

○「解脱の岸に至る」、
これが比丘というんだと言ったが、お釈迦様はそれを聞いて、ああ、自分の求めている道はこれだった、こんなお城にいつまでもおるもんじゃないというて、城を出られる。 
こういういきさつです。
ここには如来ということは、まだ出てきませんが、そにかく解脱するということを説いています。
一番のところは、如来になるという「正覚を成じ」となってますが、ここの二番目は 「結賊を破って後身を受けない」、再び輪廻の世界に転落してこない。
つまり、輪廻を解脱することが、宗教としての仏教の当面の目的だと言ってるわけです。

これも、もう一つ、『地蔵経』というお経に、

三、
「無上菩提を修せんと欲するもの、乃至三界の苦を出離せんとならば、この人すでに大悲心を発(おこ)してまずまさに大士の像を膽礼すべし。
一切の諸願すみやかにして永く業障の能く遮止(しゃし)することなからん。」
          (『地蔵菩薩本願経』) とあります。


○「無上菩提」というのは、これもまた別の言い方で、正覚ということです。
無上の菩提は印度の言葉で、もうこの上ない悟り、つまり如来様のお悟り。つまり、正覚の別の言い方です。 
だから、如来様の悟りを修するということは、如来様になるということです。
それで、「如来様になろうと思うもの―」、大乗のものは、皆未来は如来とならねばならん。
如来になりましょうというのは、大乗を欲するものですね。

○「乃至三界の苦」、つまり如来様にならずとも、せめて三界を脱しようと思うならば云々という言葉が続いています。
これは、『地蔵菩薩本願経』というお経の一節ですが、そういうふうにお経の究極の目的は如来になること。
それが今はおぼつかないのなら、せめて三界生死の解脱をすることですね。
ただ三界生死解脱をしたら、それはもう永遠の救いになるんだからもう転落しない。

しかし、もう私は上の如来様にならんでも結構です。如来様になったら責任が重うございます。
浄土も作って、多くの衆生を済度せねばなりません。
私はもうとにかく生死解脱して、そして生死解脱をしていないものだけを救って行きましょうというんじゃ、まあ小乗ですね。
そこで止まってしもうたら阿羅漢でしまいです。 

だけど、それじゃいかん。小乗に安んじゃいかん。
完全無欠にならねばならんという勇猛心を起こして如来になって行く。 
それが大乗です。

まあ、仏教の目的はときかく大乗として如来になるか、小乗で阿羅漢で止まるか、この二つです。