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和尚さんの法話 「仏教入門」 1

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命が無限にならなければ、救いも無限とはなりえない。
違う言葉でいうならば、死ななくなる、もう再び死なない境地になる。
その再び死なない境地になるということは、この世へ出てこないということですよ。
この世ならずこの三界―欲界にも色界にも無色界にも出てこないということです。

人間界は欲界なんですね。欲界の一番下が地獄。その次が餓鬼、それから畜生、それから修羅というのがあります。
それから我々人間、それから天上界と、これが六道。色界、無色界は、全部天上界ですね。
欲界には六つの天がある。六欲天といいます。色界に十八、無色界に四つあります。
だから、迷いの世界にも天上界があり、そういう天上界にも、さらにその上の天上界とあるわけなんです。
我々は、わずかに欲界の人間界におるわけなんです。まだ救いの世界の飢えの方が多い。
我々のおるところよりも上の方が高いんですね。上へ行くのにかかる時間の方が多いんですわ。
欲界を脱し、色界を脱し、無色界を脱するには、どうしたらええのかと言えば、要するに煩悩を断っていくんだというのが仏教の教えですね。
煩悩が我々を三界に、ありは欲界に結び付け、あるいは色界に結び付けているのですから。煩悩は上に行くほど希薄になって行く。だから、その煩悩を断ち切るが必要になってくるわけですね。そこで修行が必要になってくる。

ポカンとしていたって、煩悩は断ち切れない。やっぱり煩悩を断とう、断とう、断とうと、何でもやっぱり努力しなければだめですね。
稽古事でも、そうでございましょ。何度も何度も先生とこへ足を運んで、一所懸命やりましょう、先生があそこでいうたことを記憶しといて、家でおさらいしましょうというてやるから上達して行くんですわね。
習うてきて、ほっといたらだめですわね。
そりゃあ、おさらいする人の方が上達する。

孔子にこんな教訓があったんではないですか、「学びて思わざれば、則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば、則ち殆(あや)うし」。
ひょっとしたら孔子のその言葉にちなんで仏教が言ってるのか知りませんけど、仏教にもそれによう似た、「教えあって観なければ、則ち罔く、観あって教えなければ、則殆うし」というのがありますね。
それは『教観網宗』という書物で、中国の偉い坊さんが書いた本です。
「教」(すくい)というのは「教え」、仏教の学問ですね。仏教の学問ということは、お経をよく理解するということですね、仏教はお経を離れてはありえないんですから。

仏様がいらっしゃれば、直接金口(、こんく)の説法いうて、直接肉声を聞かして頂いて勉強できますけども、今日になってみたらもう拠り所はお経ですね。
その勉強が「教」です。「観」というのは座禅なんです。
いうならば実行。教と観とは、二つ揃わなければ具合が悪いというんです。

「教ありて観なければ、則ち罔し」、つまり自力聖道門で仏教を追求して行くとなったら、ある程度までは教で通って行きますけど、そこから向こうになりますと観がないと分からない。
教は何を説いてあるのかというと、心の世界を説いてるんですよ。
煩悩とか悟りとかいうても、心の世界のことです。

五識とか六識とか七識とか八識(眼、耳、鼻、舌、身、意、末那識、阿頼耶識)とか、我々の心の分析、これをお経に説いてあるわけです。
それで煩悩がどうなり、悟りがそうなったら、心がどんな状態になるのかを教えとして説いてあるわけです。
それを実際に確認しようと思ったら、自分がその世界に入って体験できなければ、靴の底から足の裏を掻いているようなものですね。
こうだろな、ああだろうなというふうに想像するより仕方がない。
それが座禅をすると想像じゃなくて、お経にこう説いてあるが、それはこの世界だなということが分かるわけです。
だから、「教ありて観なければ、則ち罔し」と。
ところが、勉強はどうでもええと。ただ座禅だけやってたらええというのは、「観ありて教なければ、則ち殆うし」で、体験だけでお経の裏付けがないと自分流の説明になってしまう。これが危ない。

それで教と観とが合致して、両方が備わらなければいかんということが『教観網宗』にある。
「学びて思わざれば、則ち罔く、思い学ばざれば、則ち殆うし」、『論語』の中にそういう言葉がありますね。
それで『教観網宗』は内容は別として、言葉はそこにちなんで、と思うんです。


話は飛びましたが、そういうことで何遍も何遍も繰り返してするから上達するんですわね。そうでないと上達というのはありえませんわな。そういうことで、仏教といものも修行によって繰り返して行く必要があるんです。
こういうたら逃げ口上のようですけど、お説教というのは同じことを何遍も何遍も聞くということが、本当は大事なんです。
まあ、とにかく仏教は救いなんだということを私が勝手に言ってるんじゃなくて、お経にこうありますということで、最初に『大無量寿経』を出してみます。

一、「我まさに修行して、仏国清浄なる荘厳無量の妙土を摂取すべし。我をして世に於いて速やかに正覚を成じ、諸々の生死勤苦の本を抜かしめたまえ。」(『大無量寿経』)

○「我まさに修行して仏国清浄なる荘厳無量の妙土を摂取すべし」、
これは、阿弥陀様がまだ如来様にならんさき、最前申しましたとうに菩薩という境地にまで到達して、そして国王となってこの世にお生まれになってきた。
その時、世自在王如来様のお説教を聞いて、ああ、これは人生じゃないというので王位を捨ててお坊さんになって、法蔵菩薩という菩薩になった。
菩薩というのは、前世からそういう修行を積んできた人なんです。
その法蔵菩薩様が世自在王如来のお説教を聞かれて、その前でお誓いするわけなんです。
「我まさに修行して仏国清浄なる荘厳無量の妙土を摂取すべし」、
つまり私は将来は如来となりまして、阿弥陀如来となって極楽浄土という浄土を作りますということを言ってるんです。「我まさに修行して仏国清浄なる―」。

○「我をして世に於いて速やかに正覚を成じ、諸々の生死勤苦の本を抜かしめたまえ」。
で、私がこの世のなかで速やかに正覚―悟りにも段階があります。
声聞の悟り、縁覚の悟り、菩薩の悟りと。菩薩にも五十二の段階がある。
ところが、本当の悟りというたら一つしかない。それは如来様の悟りで、それが正覚―を成じて速やかに如来となって、

○「諸々の生死の勤苦」、衆生がこの世の中に生まれたり死んだり―。
この世ばっかりじゃない、地獄に落ちる、餓鬼に落ちる。ええことしたら天上界へ行く。
また三界を出られず転落してくるというふうに輪廻している衆生を救わして下さいませと、おうおっしゃっているわけなんです。
そこに仏教の精神が出てるわけでしょ、私は将来正覚になると。正覚になるというのが、我々仏教徒の究極の目的なんですね。
阿弥陀様が法蔵菩薩から阿弥陀如来となったように、お釈迦様も前世からずうっと修行して釈迦如来となったように、我々もやがては何々如来となって行く。
これが仏教の目的だと、私が勝手に申してません。
阿弥陀様もこうおっしゃってますということをここに出したわけです。