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和尚さんの法話 「仏教入門」 1

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葬式というのは亡くなった方に対して大切なことでありますけれども、その葬式の儀式ということも結局そのお経に説いてあります。

お経というのは、お釈迦様のお説教が文字となって編集されて、今日我々に伝わってきているものなんです。

ですから、そのお経の中には、八万四千の法門と申しまして、いろんなことが説かれています。
それはもう薬のことまで説かれています。

お葬式ばかりじゃなくて施餓鬼とか、彼岸とか、年忌の法要とか、中陰のお勤めとかいろいろ儀式がございますわね、これは出たら目に作っているわけじゃないんです、ちゃんとお経に従って作ってきているわけです。

何でこんな儀式があるのかと、お経に説いてあるのです。それでお葬式も大事なですが、葬式ばかりが仏教じゃない。仏教とは、まずは宗教なんですね。

宗教とは一体何かといいますと、宗教の本質といいますか、目的と言ってもいいのですが、それは「救い」だと言えます。

宗教の本質は救いなんですね、救われないといけない。

葬式するのも、亡くなった人があの世で少しでも救われてもらうためにお勤めするわけです。
しかしながら、死んで後から廻向してもらうというんじゃ、とてもじゃないがおぼつかない。

廻向にも廻向の上、中、下の段階がありまして、お施主さんの心次第ですね。
お施主さんがどのくらい誠意をもってやっているかということによって、あの世でその供養を受ける精霊の境界が決まってくる。

仏教では、始めから仏さんというんじゃないんです。

お釈迦様も始めから如来様というんじゃないんですね。
つまりお経を読みますと、お釈迦様も凡夫の頃に、私は地獄へ落ちたこともあるとこう説かれています。

初めて地獄から解脱したその縁というのが、地獄に自分と一緒に落ちてる同僚が鬼に責められてビシビシと叩かれていた。
で、あんまりかわいそうやなと思うて、思わず抱きついて自分が身代わりになったというんです。
その功徳によって一遍に地獄を逃れたというのです。

人の身代わりになったその時が、私が地獄から出た時だとこうお経に説いてある。
そういうふうなものでお釈迦様でも阿弥陀様でもです、凡そ如来様という方でも始めから如来様じゃなくて、皆凡夫のときがあったんです。

場合によっては犬や畜生であったこともある。
お釈迦様の前世を書いたお経を読んだら、自分は虎であたことも鳥であったこともあると説いてあります。
それが修行というか、ちょっとでもいいことをしたら、それによって上ってくる。
そして、まず人間になる。
だから、我々の周囲に犬がある、牛がいる、馬がいる、魚がいる、虫がいるが、そういうものが全部まずは人間になるということですね。
そして天上界とか、声聞とか、縁覚とか、菩薩とかそういう段階を踏んで最後に如来様になって行くというのが仏教の教えです。
如来様には誰でもなれるんです。また、ならねばならんのだという教えです。

皆さんが、亡くなった人のことをほとけさんというのは、単に敬意を表して言っているのであって、我々がほとけというたらこの仏(ぶつ)です。
南無帰依仏両足尊というそのほとけ様、それが如来様です。
別に解釈的にいうならば、完成された人格者、厳密に感染無欠の人格者ですよ。
そういう如来様になるというのが、仏教の究極の目的なんです。
その如来様が迷うてるわけがない、救われてるわけですね。
救いにも上、下があるし、救われない世界にも上、下がある。
早い話が地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上と、いわゆる六道。
この六つの段階、これは迷いの段階です。
救われた状態の段階というたら声聞、縁覚、菩薩、仏とこうあるんですね。
仏教ではあまり救いという言葉は使いまでんで、解脱というわけですね。

解脱という言葉は省略された言葉で、解縛脱離―縛を解いて脱離すること。
これを反対に読んだら離脱ですわね。
「縛」というのは、「縛る」。
この縛るというのは何が何処へ縛ってるのかというと、我々の煩悩が我々を迷いの世界に縛り付けてるんです。
つまり仏教では、怒りとか、愚痴とか、貪欲とか、悪口とか、両舌とか色々煩悩がありますが、そういうその煩悩がある間は迷ってるんです。
これは自力聖道門、いわゆる通仏教の説明を今しているのですが、縛を解いて脱離する―迷いの世界から解脱の世界へ移って行くその一番頂点が如来様なんですね。
だから、一足飛びに凡夫から如来様になれない。
まずは三界を出ないといけません。

三界というのは迷いの世界を三つに分けて欲界、色界、無色界と、三つあるわけですね、上、中、下と。
で、この三界が迷いの世界で、ここに煩悩によって縛り付けられてる。
だから、上へ行くほど煩悩が薄い。
最後に煩悩がなくなったら声聞という境地に入ってくる。これが舎利佛とか目連とかいう阿羅漢ですわね。
それで、まずは三界を出ないといけませんね。

ここにおりながら如来様になるというのは、これはちょっと無理、まずは不可能ですから、まず三界を出る。
それから如来様になる。
自力聖道門では、そういうことなんですわ。それを解脱というわけですね。
だから、まずは三界を出るというのが仏教の当面の目的ですね。

宗教としての仏教の目的は、究極的には如来様になること。つまり、人格を完璧に完成すること。
ところがその予備の段階として、まず迷いの世界から出る。
そして、声聞になって縁覚、菩薩、仏とこの後の四つの段階を踏んで行くということになってるんですね。

だから、一般抽象的な言い方をすれば、仏教では三界にある間は救われていない。
三界から出なければ救われたとは言えないということです。
で、救われたという言葉は、我々日常の会話の中にあるわけですよね。
あの人は救われた。僕は救われた。私はあの人に救われたというふうに救いという言葉はよく使う。
しかしながら、この世の救いというものは、要するに何等かの意味で困った時、助かったという意味ですわね。
助かったからと言ってそれが死ぬまで続くのかというと、大概また違ったことで困ってくる。
たとえ助かった状態が死ぬまで続いたとしたところで、結局死ぬ。

仏教は霊魂不滅が前提ですから、あの世へ行ったらあの世の人生で、もう一遍出発し直しですね。その時に、この世の救いはこの世だけのことで、あの世まで続かない、そういうことですね。
だから、この世というものは命というものによって支えられておりますので、生きてく間の話ですから、有限ですな。この世にあることは総て有限です。そういう有限なもの、無常なものを仏教は求めない。
無限のもの、壊れない永遠不滅のものを求めるわけです。

ですから、宗教が追求するところの救いというものは、この日常の救いとはまた次元が違うわけです。つまり、それは永遠の救いなんです。
一旦それに到達したら壊れない救い、それを求める。
そうしますと、問題は命ということですね。命が有限であるのに、救いが無限だということはありえないんです。
到達した、獲得した救いが無限であるのに、命は有限である、そういうことはありえない。
だから、無限の救いに到達するためには、まずは、自分が無限の命に到達する。