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和尚さんの法話 「生死の里に生れ来て」

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それを見たら、悟りの世界はこれだなと分かるんです。


「如何が菩提というならば実の如く自心を知る」。
心というのはこういうのなんだと。禅定に入ったら分かるんです。
弘法大師が、そこのところを読んで、悟りとはこれかと理解なさったといいます。
和尚さんも、そこのところを読んで、悟りとはこれかと分かったそうです。
自分の心というのはこういうものだということを如実に知ることが悟りということなんだというのが分かったそうです。
ところが、今の禅宗の坊さんの悟りというのはそういうものじゃないんですね。
どういうものというのも、人によって違うと思うんですね。これはおかしいと思いますね。
実の如く自心を知るというのは、禅定に入って自分の姿を向こうへ出て着たものを、観ることができる。
これを観法というんです。法を観る。

「座禅観法」という言葉があるんですが、法を観ようとしたら座禅をして悟りの世界へ入って来んと観えないんですね。
ところが今の禅宗の芒さんはあの世を認めていない。あの世を認めていない坊さんが悟ってるという、そんな馬鹿なことはないんです。


以前にもお話しましたが、和尚さんの檀家さんの娘さんが禅宗の仏具店へお嫁にいってるんです。
禅宗の法衣とか仏具を扱う商いをする店ですので禅宗の坊さんが出入りするわけですわね。それで和尚さんが、そこへお嫁にいった娘さんに、禅宗の坊さんが来たら、あの世を認めますか、認めませんかということを聞いてほしいと言うたんですね。

すると、皆、あの世なんか無いという返事だったそうです。
ところが一人だけあの世があると認めた坊さんが居たそうでして、いろいろと体験談から話をして、帰るときに私がここでこんな話をしたということを他の坊さんに言わないでほしいと言うたそうです。

他の坊さんに言うたら吊るし上げになって場合によっては追い出されてしまうと。
禅宗はあの世を認めないのに、私が認めると言うたら、あれは禅宗の坊主じゃないというて、批難攻撃に遭うので私が今日、話したことは他の禅宗の坊さんには絶対に言わないで下さいとかたく口止めしたそうです。




禅宗では悟りということを言いますが、悟りを開いたらいろいろと決め事があるんでしょうがね。
そして悟ってるからといって印可というのを与えるんですね。
悟った人から印可を受けたんだから自分も悟ってるんだということになってるわけですね、禅宗では。ところが今いうようにそれは大間違いしているんですね。
悟りを開きましたらね、昔の坊さんは禅問答の訳の分からんような、例えば、昔の坊さんが作った詩に、

「空手にして鍬頭(しょとう)を握り、歩行く水牛にまたがる。牛橋上より行く、橋流れて水流れず」
空手というのは空っぽの手ですね。鍬頭というのは、鍬(くわ)です。
鍬のえを持つというんです。
空の手で鍬を持つというんですが、そんな手で鍬を持てるはずがないですね。
そして歩行しながら牛にまたがっていくというんです。こんな矛盾したことはないですね。

牛が橋の上を歩いている。その橋が流れて水が流れないというんです。
こういう詩を作ってます。こういうのを公案というんです。

そして「日出て木に影無し」
太陽が照るでしょ。太陽が木にあたると影が出来ますね。
ところが、太陽が出ているのに木に影が無い。

「鼓打って声聞かず」鼓というのは太鼓のことですね。
太鼓を叩いてるのに音がしないというんですよ。
こういうのを公案というんです。
これが分かるかという質問を与えて考えてきなさいというわけです。
禅宗ではその答が出来てお師匠さんが認めたら、おまえは悟ったと、こうなるのですけれども、そのお師匠さんそのものが迷うてるんだから、迷うてるお師匠さんに認めてもらっても何もならんと思いますね。

中国の偉い坊さんが、或る寺へ遊びにきたんです。
その寺の和尚さんは弟子がいるわけです。その弟子の一人が、偉い坊さんがうちへ来てくれるというので、お尋ねしようというて質問をするんです。

「如何なるか之祖師再来の意」と質問をするわけです。
祖師というのは達磨さんのことを言ってるわけです。
達磨さんがインドから中国へ来た。それは何のために来たんですかという質問なんですね。
するとそのお客さんの坊さんが、庭前の白樹枝だと答えたんです。
庭先の松ノ木だと。これは和尚さんも疑問だそうです。

白隠禅師という方がいますね、白隠禅師が弟子に出した公案に「隹手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」というのがあるんですが、隹手の音声を聞けという問題を出したんですね。
隹手というのは、普通は両手を叩いて音が出ますね。
ところが隹手というのは片方の手という意味なんですよ。
片手で音を出せという問題を白隠禅師が出したんです。
これは本当の公案だと和尚さんは思ったそうです。
橋が流れて水が流れずとか、陽が照ってるのに木に影が無いというのは公案だと思います。

ところが、達磨さんがインドから中国へ来るのは、庭にある松ノ木だと言ったけど、これは公安だというのはちょっと、疑問があるわけです。
白隠はこの白樹枝の公案に、賊気有りと言ってるんです。
和尚さんもこれは極端に言うたら間違ってるという意味ですと。
白樹枝というのは松ノ木のことですね。

和尚さんはこれは公案には相応しく無い答だと言います。
白隠もこれは賊気有りといいますから間違ってるということを批判してるんだろうと思うのです。
白隠禅師のお寺の近くに八百屋があって、その八百屋の主人が白隠禅師は日本一だというて、帰依してるんですね。

そして弟子たちに指導してるわけですが、隹手の音声という公案を出すわけですよね。
そしてその八百屋のおっさんも、隹手の音声というのは・・・と考えてしまって商売にならないわけです。
それで八百屋の女将さんが、白隠禅師に家の親父さんは、公案のことばっかり考えて商売もそっちのけになってしまってますので、何とか言うてきかせてくださいというて頼みにいったんです。
すると白隠は、「白隠の隹手の声を聞くよりも両手叩いて商いを為せ」と言ったんですね。
おまえの女将さんは困っているぞ。ちっと、手を叩いて商売をしなさいと言ったんですね。

隹手の声というのは、片手で音を出すということですが、八百屋のおっさんには両手で音を出して商いをしなさいということですね。
白隠禅師は、失礼かもしれませんが、悟った人だと思うのです。

大日経にあります、「如何が菩提というならば実の如く自心を知る」。
ということは、如実に心というのを知ることが、悟りだということです。
菩提というのは悟りですからね。
如何がということは、悟りとはどういうことかというと、実の如く心を知る。
心の本当の姿を知ることが悟りだと。
ここの所を読んで、和尚さんはこれが悟りだなというのが分かったそうです。

弘法大師も同じくここのところを読んで悟ったというのがあります。
心というのは形がありませんから、どんなことでも成り立つんです。
色というのは形がある。だから色即是空というのは、物質は空にはならんのですよ。
般若心経の空というのは、禅定に入った無表色を空だといってるんです。