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和尚さんの法話 「生死の里に生れ来て」

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光り輝くものではないと。そして喜んで求めるということもしない、というものがあると。
老病死というのを喜び求めるものではないと。
それを我々は求めるんですが、我々の世界に年をとるということもない、病むということもないし、死ぬということもない永遠であるというような者ばっかりが住んでるところであったら、仏様がこの世へ出てきて仏教の教えを説くということは無いということです。

老病死ということがあるので、そんことを説くために仏様が出てきたんだと、そういう意味なんです。
老病死というのは迷いの具体的な現象なんですね。

仏様はそういうのを卒業してしまってるのだけれども、我々衆生を救うために出て来てるんですね、お釈迦様はね。


次ぎにこの世へ出てくる仏様は弥勒という仏様ですが、五十六億七千万年たったら生まれてきて、新たに仏教の教えを説くわけです。
仏教はそういうことで、お釈迦様だけが一人仏様というのではないんです。
無数にあるわけです。浜の真砂の数ほどあると。
インドにはガンジス川をいう川があるんですよね。
恒河砂数のこの恒というというのはガンジス川のことです。
ガンジスという川は大きな川で、いつも水がいっぱい流れていて枯れることがない。
それで恒河というんですね。
恒の川。いつまでもいつまでも変わらないというので恒河というんですね。

そのガンジス川浜辺には砂がありますね。
お釈迦様以前にも、その浜の砂の数ほどの仏様がこの世へ来ては、あの世へ行き。
また次ぎの仏様が出てきてと、これが永遠に続いて行くというのですよ。
兎に角、次ぎから次ぎから仏様が出てきて法を説く。
このままいったら廃ってくる。廃ったらまた次ぎの仏様が出てきて法を説くと。
だから仏様の数は無数だというのです、浜の真砂の数ほどあるんです。


これは以前にもお話があったと思いますが、或る人が仏門に入ろうか、どうしようかと迷うんですね。
お釈迦様という方は偉い方だから、お弟子さんになって仏門に入ろうかどうしようかと迷うんです。
ところが仏門に入ると、どうしても在家と生活状態が違いますね。

食べる物も食べたいものが食べれるんじゃないし、日頃の行いにしてもこういうことをしたらあかん、こういうことをせんならんという決まりがあるし、一般の社会の生活とはちょっと違いますね、戒律はあるしね。
だから窮屈だなと思うわけです。

然し、仏様というのは立派な方やし、あのお方の弟子にして頂いたらな、と思うてね。
そしてお釈迦様を訪ねていくんですね。

ところが、若し仏様という方がお釈迦様だけじゃなくて、まだ後にも仏様が出てくるんだったら、若しそうであったらお釈迦様でなければならんというんじゃないんだから。
場合によっては次ぎの仏様。場合によったらまた次ぎの仏様に救ってもらえたらと思うたんです。

そしてお釈迦様の所へいって、世尊、仏様というのはあなたが初めて成られてるのですか。

次ぎに仏様は出て来ますのですかと聞くと、お釈迦様は、未来には無数の仏があると言うたんです。
未来には次ぎから次ぎから永遠に時が続く限り次ぎから次ぎから出て来て仏教を説く。
それを聞いて、ああ、そんなに仏様が無数に出てくるのだったら、なにもここでお釈迦様の弟子にならんでも次ぎの仏様でもいい。

また次ぎの仏様でもいいと、こう考えてそこでお弟子にしてもらおうと決心をして来たんだけれども、次ぎにまだ仏様が出てくると聞いたら、また次ぎの仏様にとそういう気持ちになってきて帰るんです。

その帰り道にふっと、思い出して、お釈迦様は未来には無数の仏様がお出になるとおっしゃったが、過去はどうなんだろうなと。
お釈迦様以前に仏様はいらっしゃるのだろうか。


お釈迦様が初めての仏様だろうか、これも事のついでに聞かんならんなと思って帰ってきて、お釈迦様、未来には無数の仏様がお出ましになると言いましたが、過去はどうでございましょうか。
あなた様が最初の仏様でしょうか、過去には仏様はいらっしゃるのでしょうかと聞いたんですね。
するとお釈迦様は、過去に無数の仏があると言うたんです。
無数の仏様があると、浜の真砂の数ほどの仏様が次ぎから、また次ぎから出て来てると。

そうすると、その無数の仏様があるにもかかわらず、自分はその仏様に会ったのか会わなかったのか知らないけども弟子になってこなかったというのは確実なんですね、今自分は弟子になっていないのだから。

そうすると、未来に無数の仏様があるとおっしゃったけれども、はたしてその無数の仏様に自分は会えるかどうか分からない。
その証拠に過去に無数の仏様があったにもかかわらず自分は仏弟子になってこなかったと、それだったらここでお釈迦様の弟子にして頂かないと未来はどうなるか分からんと、思いなおしてそこで改めてお釈迦様の弟子になったというお経があります。

生老病死と、自ら迷うてることを知らない。
生の始はどうであったかということも分からんし、死んでどうなっていくのかということも分からないということを弘法大師が嘆いているわけですね。

仏教では悟りということをよくいいますね。特に禅宗では悟りといいますが。
その悟りとはいったいどういうことなのか。

これは真言宗の「大日経」という経典なんですが、弘法大師ももちろん読んでいらっしゃる。その中の一説にこういう言葉があります。


「如何が菩提というならば実の如く自心を知るなり」
菩提というのが悟りです。
悟りとはどういうことなのかというならば実の如く自心を知ると。
心というものは、どういうものであるかということを知ることだということですね。
その心というのを知るということは、座禅をせんとだめなんですね。
眼・耳・鼻・舌・身・意―この奥に阿頼耶識というのがあるんですが。
我々の心は一つと違うんですよ。眼には眼の心。耳には耳の心。鼻には鼻の心。舌には舌の心と、皆心がある。それが識。識というのが心ですね。
眼識、耳識、鼻識―身識と、そしてこれが五つありますね、これを五識というんです。
この五識を統一してるのが、これが意識なんです。
意識の中に五識を統一して共有して、眼で物を見るときには意識も一緒に物を見てるわけです。
ところが座禅をして禅定に入っていくとこれが消えるんです。
そして意識だけになるんです。五識が有る間は禅定とはいえないんです。

五識が消えると、意識の世界に入るんです。五識が消えて禅定に入ると見えるものがあるんです。その見えるものは、なにが見えるのかいうと、心の中が見えるんです。
それは色形があるんです、それを無表色という仏教語があるんです。
識というのは、色形を持ってるものを識といいます。
般若心経の中に色即是空というのがありますが、般若心経の解説の本を読むと、その色とは物質だと書いてありますが、色も物質なんですよ。

ところが、物質の色以外に無表色という色がありまして、現すことの出来ない色ということです。
これが無表色ですといって出してくるわけにいかないんです。
それは禅定へ入って五識が消えたら意識でもって見える色相なんです。
それは心なんですね。それを無表色というんです。